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高津『ギリシア語文法』の「形態論」を通読したら感動した

昨今はカルチャーセンターも休業していますので、みなさん、古典語を学ぶ機会が乏しくなっているかもしれないですね。私はというと、高津先生の『ギリシア語文法』の通読に挑戦することで凌いでいます。

西洋古典語塾である東京古典学舎や横浜古典学舎は、zoomを使った遠隔授業を開始されたようですので、学習場所に困っている方はそうしたところを使ってみるとは良いかもしれません。

さて、高津文法に戻ります。ようやく「形態論」を読了しました。いや、もう感動です。これまでは、講読参加中によくわからない箇所があった時に調べる形で読んだり、自分の不得意とする分野(特に希求法や接続法、あるいは分詞、属格など)に特化して読むなどしていました。が、今回は最初の一ページ目から通読してみるという荒技に取り掛かったわけですが、結論から言えば、これは大成功でした。

ポイントを言ってみるならこんな感じです。
・ほぼ全ての項目を網羅している安心感
・言語学的な見地からの説明が心掛けられており、全く別種の形と思われる各種の変化を、可能な限り統一的に説明されており、これまでの断片的な知識が1つの体系に収斂されていく気持ちになれる。
(これは具体的には、語根、接尾辞、語尾、語幹という基礎的な概念と、母音交替という印欧語通有の現象、そしてthematicとathematicという基礎的な対比をもとに、O活用とそれ以外、ω動詞とそれ以外といった決定的特徴を踏まえながら、名詞・形容詞・動詞の変化を横断的、統一的に理解できるということです。)
・例外的な活用、曲用をする単語類についても、別に項目を設けて列挙されている。
・ホメロスから他の方言、時にはミケーネ時代のギリシャ語にも言及しながら本来的なギリシャ語の特徴を意識された記述が随所に見られ、ギリシャ語の本質のようなものを受け止めることができる。
いやあ、この感動を言語化するのは大変難しいですが、なんとか表現するとすれば上のような形です。

高津『ギリシア語文法』を初めて買ったのは、そうですね、前の前の家に住んでいた時ですから(誰も知らんがな)、もう6年位前です。その時は、序論の「ギリシア語の歴史(方言)」の項目でもう身動きができなくなってしまい、なんという世界に足を踏み入れてしまったのだ、なんという高い山が聳え立っているのかと呆然とした記憶があります。
その後、ギリシャ語学習3年目頃にも通読にトライをしてみようと思いましたが、あっけなく挫折しました。

現在は、学習7年目となり、既に散文と韻文の講読に参加し、ギリシャ語の基礎単語を覚え、OxfordのClassical Greek Grammarを読み込み、さらに岩波文庫のこれまた高津先生の名著『比較言語学入門』やその手の本に触れられたおかげか、ようやくこの『ギリシア語文法』を通読できるようになりました(もちろん、理解度が不十分なところは多々あります。)

高津形態論のハイライトはやはり動詞の変化形の解説ですが、形態論では後半です。ところが、ここから読もうとしてもなかなか理解は難しかったでしょう。それまでの序論や名詞・形容詞などの格変化の解説で折に触れて述べられていたこと(特に言語学的な問題点、各方言の特質、アッティカ方言の歴史的な動き、ギリシャ語特有のクセ(語末はς,ν,ρ以外に子音は来ないなど。))を元に解説がなされているので(というかそれを前提にしてないと理解できない)、「通読して初めて理解できる本」となっているのです。これは形態論を読了してわかったことですね。だからこれまでは特定の項目に限定してじっくり読もうとしても理解が不十分であったのか、と気づきました。

とは言っても、完全に消化するにはまだ力不足です。形態論を通読して言えることは、
・ホメロスを通らずして高津文法の理解は不可能
・サンスクリット語を通らずして高津文法の消化は見込めない
ということです。
それは言語学者である高津先生ならではの特徴の気がします。

そこでいずれはホメロスとサンスクリット語もやろう、と最近決意したのですが、ちょうどこのタイミングで、ホメロスの「オデュッセイア」の講読に参加できる機会が訪れました。なんという巡り合わせか・・・

待ちに待ったホメロスでどんなことを学べるのか。
いよいよヨーロッパ文学の最初にして頂点の原典にどう取り組めるのか。
またご報告したいと思います。

古典ギリシャ語単語集アプリを作ることにしました!

古典ギリシャ語を学んでる方の悩みの1つが、英単語やそのほかの言語のように使える単語集が非常に少ないということだと思います。

私もそれで色々と悩み、近年刊行された「古代ギリシャ語語彙集」(大阪公立大学共同出版会)や英語で書かれたギリシャ語の語彙集を使っていました。

こうした書籍での勉強も良いです。でも、例えば通勤・通学中などの空き時間にスマホアプリなどで簡単に学習できればなお良いのに、、、と思っていました。しかし、少なくともiPhon向けアプリにはないようで、対象を古典ギリシャ語ー英語の単語アプリに広げても、なかなか見つからないのですね。

それでどうしようかと考えまして、自分でアプリを制作することにしました(笑)

このような感じになりました。

ダークモードにて
ペルセウスにも飛べるように・・・

現在、アプリ自体はほぼ完成しましたので、あとはアップルストアを通じてリリースする手続きを行うところです。

それにしても、自分でギリシャ語単語のデータベースを作っていたとき、厳選した各単語をそれぞれ調べている最中に様々な発見があり、とても勉強になりました。やはり自分で手を動かすということの効用は計り知れないですね。

アプリ内の単語の水準は、入門で当然に覚えられるものは省き、入門後、ツキュディデスやプラトンなどの散文を読む方向けのものにしました。
一方で、ユーザーが自分で読解中に見つけて気になった単語を自ら登録できる機能も入れました。

入力画面

現在はデータベース内の単語数が100ちょっとですが、いずれは1000に到達させたいと思います。もっとも、今の100単語は厳選した中級単語ですので、力試しに確認をしていただければありがたいです。

正式リリースをしましたらまた報告させていただきます!

ソロンという、時代の谷間。

ここ半年、ソロンの詩を読んでいました。
ソロンって、なんか面白いですよね。
いわゆる重荷おろし(債権者の債権を放棄させ、身体を抵当にとる債務奴隷制度を廃止)をしてギリシア7賢人の仲間入りをし、政治家としては立派で、そこそこ詩も残しているにも関わらず、作品自体はそれほど評価は高くないようです。

それはおそらく、時代のせいだと思います。本来散文であったならうまく表現できていたかもしれないことを、散文が発展していなかったために韻文で表現をするしかなかったということです。

時系列で時代区分を見るとわかりやすいかもしれません。
紀元前8世紀 ホメロス、ヘシオドス 叙事詩の時代
紀元前7世紀 サッポー、アルカイオスなど 抒情詩の時代
紀元前6世紀 ソロン
紀元前5世紀 ヘロドトス、ツキュディデス、アイスキュロス、ソフォクレスなど 歴史家、ギリシャ悲劇の時代
紀元前4世紀 プラトン、リュシアス、デモステネスなど 哲学、弁論家の時代

そう、ソロンって、本当に時代的には谷間で、ヘロドトスやツキュディデスの登場で散文が主流になる前ですから、表現手段としては韻文しかなかったようです。しかもソロンはアテナイの第一人者であり政治家ですから、その興味の対象は社会であり政治のはずです(つまり本来散文が得意とする分野)。したがって、ソロンの思想が思う存分適当な文体によって表現仕切れなかった点は否定できないと思います。

ソロンの文体は韻律(エレゲイア詩)で、単語はホメロスで出てくるようなものが極めて多かったです。私はまだホメロスに取り掛かってはいませんが、単語集のうち、ホメロスや韻文用の部分を予習・復習して臨んだところ、そのあたりの単語が頻出していました。ただ、決して読みにくいということはなく、古典期アッティカ方言とそう大差はないと思います。

そして現在、勢いに乗って、サッポーの講読に参加を始めました。サッポーは前7世紀レスボス島の大女性詩人。
ソロンに比べると、劇的に難しい。。
サッポーについてもまたお伝えできればと思います!

GoodWin の”A Greek GRAMMAR”は素晴らしかった

ついに、Goodwinの“A Greek Grammar”を本格的に読み始めました。
世界的な権威のある文法書ですが、すごく分かりやすい英語が使われていて、むしろ通読に適していると思います。

そうです、このレベルの文法書にようやく本格的に触れることができるようになりました!
ギリシャ語を始めて5年が経過しましたが、同じタイミングでギリシャ語を始めて、2年目くらいにすでにSmithやGoodwinを参照する方を横目に、羨ましさを感じながら、自分のレベルに適した文法書で進めてきました。
それがOxfordの出している“Classical Greek Grammar”なのですが、ようやく、Oxfordのこの本をレバレッジにして、Goodwinに辿り着くことができた感じです。

2年目にGoodwinを開いていたら、どうだったでしょうか。
間違いなく、すぐに放り出していたでしょう。
辞書的に分厚い本を利用するのが得意な方であれば、2年目くらいから使えるかもしれませんが、私にはできなかったと思います。

Goodwinの素晴らしい点は以下の通りです。
・英語が分かりやすい。
・文法事項が網羅的に説明されていて安心できる。
・文法規則の重要度の見極めがしやすい。
・文法的な用例の量が憎いほどちょうど良い。
・巻末の動詞一覧が使いやすい。
・持ち運び可能な大きさ。
(欠点:辞書的な使い方は難しいかも)

もっとも、Goodwinを使えるようになったのは、紛れもなく、Oxfordの”Classical Greek Grammar”を読み込んでいたおかげです。文法規則の構造と重要な規則そのもの、そして格変化、動詞変化がおおよそ頭に入っていたおかげで、細部に入りがちなこうした文法書でも、全体を意識しながら読めるようになりました。それから、ボキャブラリーが増えたおかげで、例文に目を通すストレスが減ったのも大きいです。

なお、同じGoodwinでも、とても評判の良い”Syntax of the moods and tenses of the Greek verb”は、英語が若干引っかかるのと、用例が多すぎるせいで、まだ私には難しいようです。。
(また、Smithは私の中では百科事典です。)

ひとまず、座右の参考書を、Oxfordの”Classical Greek Grammar”から、このGoodwinの”A Greek Grammar”へ徐々に移行して行き、さらなるステップアップを図っていければと思います!

高津春繁『ギリシア語文法』(岩波書店)

1年前の記事、「古典ギリシャ語「中級の下」からの脱出法!」で、オススメな文法書として(オススメする資格があるのかは置いておいて)、オックスフォードのOxford Grammar of Classical Greekを挙げさせていただいていました。
が、その後私が最近よく使うようになったのは、表題の、高津春繁先生の『ギリシア語文法』です。

1960年の出版だそうですが、近年よく絶版になっている一方で、底堅い人気がありました。ところが、日本語で書かれた唯一の本格的ギリシャ語文法書であるためか、ついに岩波書店がオンデマンド印刷で提供をはじめました。

ある程度の力が付く前に読むのは逆に混乱をもたらすかもしませんが、極めて有意義な本です。
最近はこちらを持ち運び座右の書にすべく奮闘中です。見た目よりは軽いですが、持ち運ぶにはかなりかさばります。私はこの本を持ち運ぶためだけにバッグを変えました。

高津先生は、言語学者です。印欧語全体を視野に入れ、それへの理解を背景にして書かれています。文法のハウツー本ではありません。「ギリシャ語を考える文法書」とでも言いましょうか。
言語というのは、文法ルールに寄っているわけですが、必ずしも、なぜそうなるのかどうしてそうなったのかを説明できるわけではありません。言語というのが複雑系の世界の中で進化していくものですから、それは当然でしょう。したがって、多くの文法書では、「そうなるとしか言いようがない」ために、文法規則の理由や背景にまでは踏み込みまないのですね。

ところが、高津先生は、他の印欧語にも良く通じた言語学者としての膨大な知識を背景に、文法規則の理由(Whyの部分)や背景(Howの部分)に踏み込んだ説明をするのです。それによって読者はギリシャ語文法を歴史の時間的流れを視野に立体的に理解することができるのです(そのように感じました。)。

一方、定評のある英語の文法書は、考える文法というよりは、あらゆる例外も漏らさないで紹介する百科事典的側面が強いと思います。高津先生の文法書はそうした姿勢とは対極のものと言っても良いのかもしれません。
高津先生の文法書は、他の文法書と同様、多くの例文を掲げ、変化表ももれなく挙げられており、目前のギリシャ語を解読するに際しても不便を感じません。少々分厚い書ではありますが、自分なりにインデントしやすく工夫すれば問題ではないと思います。

この本がもし英訳されていたら、世界最高峰の文法書の地位に立ちうるのではなかろうか?と思ったりしますが、それはSmythやGoodwinを読み込めていない私の浅慮の可能性がありますのであまり言えません。。

何れにしても、当面はこの高津先生の文法書を中心にギリシャ語に触れ、「ギリシャ語を考える」営為を楽しんでいきたいと思っています。

ギリシャ悲劇-エウリピデス「バッカイ」輪読参加!

4月に入り、心機一転してエウリピデスの「バッカイ」の輪読に参加することにしました。

同じことを続けるのも大事ですが、違った視点からやってみる、というのも重要なようです。まだ一回しか参加していませんが、「バッカイ」のコロスの歌う箇所を読み、ギリシャ語に秘められている多様性をみることができました。

バッカイはご存知の通り、ブドウ酒の神であるディオニュソスと、テーバイ創始者名高きカドモスの孫であるペンテウスの対話を中心とし、最後にペンテウスの身体が実母によりバラバラにされる様子をドラマチックに描くものです。

とは言っても、エウリピデス悲劇に通じるところですが、アクション場面そのものは使者の伝言を通じて登場人物に届けられる形です。
ギリシャ悲劇はもともと合唱であったのが、徐々にセリフが入り、それが劇になっていったという背景ですので、それは至極当然なのかもしれません。
(個人的には、早稲田大学のグリークラブが、合唱をメインとしつつ、寸劇風に移行していったことを想起させます。)

合唱文化は、ギリシャ民族の中でも、もともとドーリス系を起源とするものらしく、悲劇作品中、セリフはアッティカ(アテネを中心とする地域)方言、そして合唱部分はドーリス方言が利用されています。ドーリス方言は初めてでしたので、若干読みづらいものではありましたが、先生の手ほどきによりなんとかついていけました。作者はアテナイ人ですので、ドーリス方言を使用するとはいっても、似非大阪弁のような、アテナイ人でも創作できる不完全かつ簡易なドーリス方言とのこと。確かに、アッティカ方言(すなわち古典ギリシャ語)を学んでいれば、合唱隊の歌部分もそれなりに理解は可能でした。

これまで散文ばかり読んでいましたので、ドーリス方言に触れることで、また少し違った角度からギリシャ語と向き合えそうで楽しく思います。
散文よりも、ギリシャ語を「解読」する側面が大きく、暗号解読的な側面が好きな人は向いているかもしれません。

そういえば、先日読んだ部分では、ディオニュソスをバカにしていたペンテウスに関して、コロスたちが「正義よ、現れて進め!」と述べてペンテウスの死を予告する箇所がありました。先生曰く、正義が「現れる」というのは、普段正義というものは隠れているという観念があったからということ。そして何かが損なわれたとき、正義の女神が現れ、やってくるのだと。
罰されるという意味の言葉をギリシャ語で表すとき、「正義を渡す」「正義に渡す」と記述するのですが、ようやく長年の疑問が繋がってきました。

このような新しい発見も、これまでとは違った角度からギリシャ語に触れてみたからこそです。
これからも新しい発見ができることを期待しつつ、精進していきます。

古典ギリシャ語「中級の下」からの脱出法!

さて、今回は古典ギリシャ語の「中級の下」からできるだけ早く脱出する方法を、具体的な教材名を挙げて提案してみたいと思います。
まずお断りしなければならないのは、私自身は紛れもなくギリシャ語中級レベルであり、「中級の下」から脱出しつつあるか、脱出したとしてもまだ間がないという点です。
しかし、私はギリシャ語「中級の下」の段階で3年ほど苦しみ、しかもまだそれほど時間が経っていないわけですから、この時期に私が言えることは、同じように悩んでいる方々に益するところが大きいと思います。

ギリシャ語初級・中級・上級の定義については、下記の記事で述べてみましたので、そちらをご参照ください。
「古典ギリシャ語初級・中級・上級の能力区分を考えてみました。」

・「中級の下」で目標にすべきはギリシャ語の「型」を身につけること!

全てに言えることですが、何かをマスターしようとすれば、その何かの基本的な「型」を身につけて、そこから追加の情報を、その「型」の中で位置付けていくことが最も効率的です。
そうでないと、体系化されていない情報を脳みその中に積み込んでいくだけで、脳みその中がただのゴミ箱のようになってしまうのです。ギリシャ語も同様であり、無秩序な状態でギリシャ語を理解することはできないでしょう。

・読み方の「型」に従う!

まずはギリシャ語の読み方の「型」を見ていきましょう。
入門クラスが終わり、実際に原典読解に入ってみると、早速手に入れた断片的な知識を使って、文章の頭から理解していこうというスタイルになりがちです。
しかし、古典語の読み方には「型」というものがあり、まずはそれに則っていかないと、文全体の理解が滞ってしまいます。
読み方の基本的な「型」は次の通りです(先生からの受け売りです。)
・まず定動詞を見つける

・その定動詞の主語を見つける

・定動詞の目的語を見つける

・そのほかの語(形容詞、副詞、小辞など)を理解する

定動詞と主語、そして目的語さえわかれば、文の基本構造はこれで十分です。そうすると、後の単語の情報は以上の3つの言葉の飾り付けですから、文の意味を理解しながら情報を追加していくことができます。
副文がある場合は、副文中の定動詞、意味上の主語、目的語を抑えておくと良さそうです。
これを、もし文の頭から理解していこうとすると、文の構造の理解が後回しになってしまい、間違った理解の上に間違った理解を重ねることになりかねません。今の能力段階では絶対に避けるべきでしょう。
これが上級レベルになると、頭から見ていっても文構造が予想できるのでしょうね・・・羨ましい限りです。

・文法情報をシンプルに体系化してくれる「座右の参考書」をボロボロにする

読み方の「型」は理解できるにしても、それに則って解読していくのは簡単ではありません。
まず主要な動詞の活用や名詞・形容詞の曲用について記憶できていなければなりませんし、条件文や原因節など、副文についての知識もまとまっていないと、やはり闇雲な理解になってしまいます。

そこで、単語の形態論と構文論に関して、自分に合った参考書をなんども見返して、血肉にする必要があると思います。
プライドが高いと、この段階で、
smythの「Greek Grammar」や、
Goodwinの「A Greek Grammar」
といった定番でかつ最高権威の参考書を手元に置こうとするのかもしれませんが、普通の人は避けた方がいいと思います。もちろん、本当に頭の良い人はそれで行けると思いますが、私には無理でした。はっきりと言います。というのは、鬱蒼と茂ったギリシャ語の森林の中の細かい用例とその説明はたくさんあるのですが、ここからはギリシャ語の体系、すなわち「型」の全貌が全然見えず、余計に道に迷ってしまい、脳みその中がゴミ箱と化していってしまったからです。

そこで私が強くおすすめするのは、
Oxfordが出している「Grammar of Classical Greek」
これです!

この本は、もちろん英文ですが、シンプルな英語でわかりやすくまとまっていることに加え、ページ数も250ページ程度に抑えられており、中級前半の段階で血肉にするにはもってこいの分量です。
さらに、その内容は薄いのかと思いきや、散文を理解するのに必要十分な情報量を盛り込んでいます。
なんというか、中級レベルの人が迷いやすいところをしっかりとフォローしてくれて、一方で余計な説明はないのです。
混同しがちな紛らわしい単語についても、その一覧が掲げられていたり、至れり尽くせりです。
また、わかりやすい変化表ももちろん整備されています。変化表の下部に注意書き的な説明部分があり、それもまたとっても親切なのです。

もちろん、田中・松平の「ギリシア語入門」や、そのほか講義で使った教科書を復習する形でも良いと思います。
ただ、Oxfordのこの本はとても要領よくまとまっており、見開き2ページ、または4ページで一項目をまとめており、何かとつけて参照がしやすいですし、「型」を把握するのにうってつけなのです。
また、いずれはSmythやGoodwinを参照しなければならない日が来ることを考えれば、この本で英文による説明に慣れておいても良いと思います。

・ボキャブラリーは必須!自然にはなかなかボキャブラリーは増えない!

さて、人間には許容できる刺激量というものがあります。
あまりにも膨大な情報量になって来ると、頭が働かなくなるという経験はどなたにでもあるでしょう。
ギリシャ語もそうではないでしょうか。つまり、辞書を引きながら原文に当たっていると、初心者ほど情報過多の状態に陥り、文の理解への障壁が高くなってしまいます。
具体的には、原文に出て来る各単語の意味が理解できず、それを一つ一つ辞書に当たって意味を調べようとするところ、辞書の中の例文もまたギリシャ語であり、当該単語の項目とにらめっこする時間が長くなり、必然的に情報過多の状態に至るのです。これに加えて構文を調べようとして参考書に当たるとより一層そうです。
これは非常なストレスであり、下手をするとギリシャ語と疎遠になってしまいかねない落とし穴です。特に入門を終えたばかりの「中級の下」の私には重くのしかかりました。

このストレスの最な原因は、ギリシャ語のボキャブラリー不足だと思います。
そこで、ギリシャ語ボキャブラリーについては、早くから増やすことを考えると良いのではないでしょうか。
古典語は辞書を引きながら読み込んでいくのが普通のため、ボキャブラリー対策はあまり重視されない傾向があるようです。しかし、やはり基礎語彙を早くから身につけておくかどうかで、その後のストレス負荷が全然変わりますから、「中級の下」を早くに脱出するにはボキャブラリー対策は必要だと思います。

ボキャブラリーは、かつて英単語を覚えた時のように、単語集で覚えるのが一番効率的でしょう。
私は、日本語のものと英語のものを両方使いました。
恥ずかしながら英語で覚えるというのは頭に入ってきにくかったので、英語のものでは日本語の意味を手書きで併記しました。
日本語で書かれた単語集としては、
「古代ギリシャ語語彙集」
英語で書かれた単語集としては、
「Classical Greek Prose: A Basic Vocabulary」
が良かったです。

「古代ギリシャ語語彙集」は、前半の基礎語彙のみでとりあえずは良いのではないでしょうか。
また、ここの基礎語彙をおおよそ覚えると、後者がグッと覚えやすくなりました。

・辞書はなんでも良い?

「中級の下」の段階では、ストレス負荷を抑えることが必要だと思います。
なので、辞書も日本語で書かれたものでも良いと思います。
日本語で書かれたものとしては、
ギリシャ語辞典
が良いのではないでしょうか。用例もそれなりに豊富にあります。また、私は上記に挙げた「Classical Greek Prose: A Basic Vocabulary」で日本語を併記する際、この「ギリシャ語辞典」の訳を利用しました。
欠点は、持ち運び困難な大きさと、4万8600円というおよそ書籍代とは考え難い金額でしょうか。
私は解体してPDFにしてタブレットで見られるようにしました。裁断する時の決意は並々ならぬものでした。

もちろん、世界的権威である、LSJの中型版、
「Intermediate Greek-English Lexicon」
は併用していました。皆が使ってますので、なんだかんだで安心します。現在はこれがメインです。

・それでも1年は苦痛の期間?

さて、以上、古典ギリシャ語「中級の下」をできるだけ早く脱出する方法を提案しました。
しかし、それでも、原典を講読することは続けるべきだと思います。
ギリシャ語の文の流れや音を肌で身につけることの効用は無視できません。それ自体、ギリシャ語へのストレス負荷の解消に繋がります。
また、文法書だけ読んでいても、どこかで集中力が続かなくなってしまうでしょう。
結局は、上にあげた方法と、原典講読が相互に作用を及ぼしあいながら、総合的に力が伸びていくものなのだろうと思います。
ですので、やはり「型」が身につくまでの間、少なくとも1年間程度は、予習の苦痛を我慢する必要があるのかもしれません。

古典ギリシャ語初級・中級・上級の能力区分を考えてみました。

自分が古典ギリシャ語「中級の下」から脱せたのか、実際のところ定かではありませんが、1年ぶりにツキュディデスの戦史の講読に参加をし、以前に比べて飛躍的な伸びを感じられたのは事実です。
そこで、ギリシャ語「中級の下」という峠をいかにすれば脱出できるのか、書いてみたいと思います。

もっとも、その前に、この記事では、「ギリシャ語のレベル」というものを区分してみたいと思います。

ギリシャ語でいうところの初級、中級の下、中級の上、上級は以下のようなものではないでしょうか。

・初級

いわゆる入門クラスレベル。初めて学ぶ言語はやはり楽しい。ギリシャ語の名詞格変化、動詞のおびただしい量の活用、直接法・接続法・希求法の使われ方を理解する。やる気が持続すれば普通は1年間程度で卒業。

・中級の下

入門クラスを終え、原典の講読を開始したところ。各単語を見て、名詞や形容詞の格がある程度判断でき、動詞の語尾を見て、それが直接法・接続法・希求法なのか、そして人称と時制がある程度判断できる。もっとも、知っているボキャブラリーは圧倒的に少なく、一つ一つの単語に辞書を引く手間を要し、予習に膨大な時間がかかる。ペルセウス(単語の曲用・活用後の形から原型を導くことができるwebサイト。辞書にあたるのを容易にさせる。)も多用せざるを得ない。希英辞書中の例文はボキャブラリー不足のためちんぷんかんぷんであり、非常なストレスがかかる。そこであっちこっちと自分のレベルに合いそうな辞書や参考書(日本語や英語)に手を出さざるを得ない。副文が出てきた途端、それが条件節なのか、目的節なのか、結果節なのか、条件節であるとすればシンプルコンディションなのか、ジェネラルコンディションなのか、反実仮想なのかなど、すぐには判断がつかない。「ως」を見るだけで大きな不安に襲われる。そのほか副文を導入する接続詞も同じ。辞書だけでは到底構文を理解できず、邦訳を見て初めてその構文がうっすらと分かり、それに対応する参考書の項目を引くことができる。予習は基本的に苦痛である。ここを脱するには、人によっては半年。人によっては5年必要か。このレベルを脱する方法が次の記事のテーマ。

・中級の上

長きに渡った中級の下からようやく脱せ、ギリシャ語を読むことが心から楽しくなる。基本的なボキャブラリーには通じており、簡単な例文であれば訳なしで比較的スムーズに理解できる。名詞・形容詞の格変化、動詞の活用、分詞の変化については理解でき、基礎語彙であれば意味も分かる。ペルセウスは基本的に使わずに済む。副文が出てくるとそれを理解することに情熱が涌き出でてくる。副文の理解に関しては困難なく理解できる頻度が増えている。どうしても理解できない場合には訳を参考にする。「ως」はやはり曲者。完全には制することはできない。そのほか副文を導入する接続詞も同じ。それでも辞書があれば訳を見ずに理解できる頻度は圧倒的に増える。

・上級

私には未知のレベルなので言えることは少ない。。しかし先輩方の様子を見ると、どうやら辞書のみで訳の参照無しで文章の理解がほぼ可能で、副文についても困難なく理解できるようだ。この段階に至るまでには10年を要する。上級の上となると、私の師匠を見る限り、ほぼ辞書なしで文章の理解が可能。古典語学習者が目指す最終局面。学習開始から20年以上を要する?

さて、どんな事でも「中の下の峠を脱する」のが一番大変な気がします。それは仕事でも他の技能習得でも同じではないでしょうか。
私が実践したこと(していること)については、次回の記事で書いてみたいと思います。

なんでギリシャ語なんかやってるの?いやいや、なんでやらないの!?

1. 精神の資産形成

一時期(今でも?)「意識高い系」という言葉が流行りましたが、仕事やキャリアに対する日本人の熱意は恐るべきもののように思います。

さて、今日は、現在では既に使われていない古代のギリシャ語に親しむことが、いったいどういう意味をもつのかについて、ちょっとラディカルに考えてみたいと思います。

古典ギリシャ語を趣味にすること。それは、自分の精神の資産形成になるものと考えています。

資産という言葉を使ってしまいましたので、お金の問題と対比してみます。

お金を稼ぐことについてよく言われることがあります。
まず、労働は、自分の時間を切り売りするものであって、それによってお金を得られるけれども、それ以上後には何も残りません。
自分の時間の対価としてお金を得ても、それはそれ以外の自分の時間を過ごすための費用として消費されてしまい、その後はまた労働をしなければ生きていけなくなります。

一方、会社や組織、あるいは投資用不動産などの資産形成のために努力したならば、それによって出来たシステムがお金を作り出します。つまり、努力をその時点でやめたとしても、お金が自動的に入ってくる仕組みになります。それこそが資産というものです。

こうしたことは良く言われている。本屋にいくらでも平積みされています。
しかし、目下のお金のことばかりに、日本人は関心があるのか、精神面の資産形成については言及された本がほとんどありません。

当然のことながら、精神はお金よりも大事です。それは誰も争わないのではないでしょうか。
それにもかかわらず、このことがこれまでほとんど問われていないのが不思議でなりません。

次々と喜びを生み出す精神資産。これが、最低限の生活が確保できた後は、最も大切なものであることは明らかでしょう。
そして、ギリシャ語をやるということは、絶えず喜びを生み出してくれる、この精神資産の形成といえます。

2. 精神のキャッシュフロー

世の中には色々な趣味があります。
パチンコ、マンガ、映画鑑賞、旅行、ゴルフ、etc.

異論はあるかもしれませんが、これらはあまり後に大切なものを残さないような寂しさがあります。食べてしまったご飯のごとく、その時間を経験した後に残って溢れだす何かが無いのです。

一方で、ギリシャ語(をはじめとする古典語や古典そのもの)は、ゴルフやパチコンとは違い、常にその何かを生み出します。それは、言わば精神のキャッシュフローとでも言えるものでしょう。
これこそが、その他の趣味との違いです。
それはあたかも、労働と資産形成が、行動を止めてもなおキャッシュフローを生み出すかどうかによって区別されるかの如くです。

それでは、どんな風に精神のキャッシュフローは生み出されるか?
例えば、こんな風に。

はるかミケーネ時代から始まったギリシャ語、もともとインドヨーロッパ語族の一派であり、バルカン半島南下が古代のいつ頃であったのか、そういえば同じくインド・ヨーロッパ語族であり長い間人類の記憶から消えていたヒッタイト帝国が彼らと別れたのはいつ頃であったのか、そしてペルシャ戦争に勝利をし自信にあふれたギリシャにアテナイの覇権が及びその勢いを恐れたスパルタとの激突があり、彼らが内向きな紛争に明け暮れていた隙にマケドニアよりフィリッポスが怒涛のごとくギリシャ全土を席巻し、ギリシャ人自身によってはとうとう成し遂げられなかったギリシャの統一を実現し、その子アレクサンドロス大王によって率いられたマケドニア・ギリシャ軍がペルシャを滅亡させ、はるかインドにまで至る巨大な帝国を作り上げ、そこにギリシャ文化を浸透させてヘレニズム時代を作り上げ、ギリシャ語は世界公用語となりカエサルやキケロをしゃべらせ、新約聖書を綴り、ローマ帝国分裂後はラテン語に代わり東ローマ帝国の公用語としてローマ法大全の一部を彩り、首都コンスタンティノープルは古代ギリシャ文化の宝庫としてその価値を守りぬき、コンスタンティノープル陥落と共に一級のギリシャ語資料と学者がコンスタンティノープルから逃れイタリア半島へ到達しルネッサンスに寄与した後、ヨーロッパの「古典」としての地位を取り戻し、現在に連なる西洋精神の真髄を作り出し、一方、長きに渡りオスマン・トルコ支配下にあり19世紀になってようやくトルコからの独立を勝ち取ったギリシャの歩みは決して順調なものではなく、はるか古代より小アジア沿岸沿いに発展していたギリシャ系都市に住んでいた偉大なイオニア人の子孫らは歴史を捨て本土へ幾千年ぶりに戻らざるを得なくなった住民交換の悲劇を経験し、いつしか必ずコンスタンティノープルを奪還するという壮大なメガリ・イデアは夢やぶれて、その後も偉大すぎる過去に引きずられたままディモティキとカサレブサの対立を経験し、ようやく現代のギリシャの平安が訪れて・・・

駅のホームで電車を待っているときや、駅から事務所へ歩いている道のりでも、私はギリシャのことばかり考えています。もちろん、私もまだまだギリシャ初心者の部類ですが、そんなまだまだな私でさえ、ギリシャという切り口から豊富なアイデアや感情が次々と湧き出てきます。

3. 日本人の「普通」への信望の根強さ

ギリシャ語(をはじめとする古典語や古典そのもの)への関心がもう少し上がって、活性化してくれるといいなあと思います。いや、これほど楽しいものですから、もっと活性化する余地は十分にあるはずです。

一人一人が好きなことを見つけ、エネルギーを注入し、自分自身の人生を生きる。私はこれこそが幸福な国の条件だと思っていますが、なんだかんだで日本はまだまだだなと思います。
普通のやり方では生き残れないとか、普通のアイデアではビジネスにならないなどと言われますが、結局は大きな普通の生き方という枠組みの中で、より良く普通に生きる小手先の手段のように思えてなりません。「普通」であること、「普通」のやり方というのが、まだまだ猛威を振るっているわけです。
本当の意味で人々の関心が多様化されていないのではないかと思います。関係性というものが、実に貧相です。

関係性の貧相さを象徴するものがあります。
それは、多くの日本人が仕事に神聖さを抱いているという現象です。これは緩和されてきているとはいえ、まだまだ根強いですね。
はっきり言って、労働は奴隷的です。だって、その労働をしなくても同じだけのお金をもらえるのであれば、しないのではないですか?ということは、本当にしたいことではありませんよね?
こんなものに、神聖さを感じてどうするのでしょうか。
でも、日常のものであり、人生の大半をそれによって過ごすものであるためか、労働を正当化するための自己啓発書などを読んで安心してしまう方は多くいます。

ビジネスを通して世界を変えるのだ!と息巻いている人もいます。そういう人のおかげで暮らしが便利になっている側面もありますので、そういう人を心からリスペクトしますし、そういう生き方もあると思いますので、反対しません。でも、それを正しいものとして他人にも求めるのは違うでしょう。大多数の人は世界を変えようとするほどまでの考えや情熱は持っていないのでは?そして無理に持つ必要もないのでは?少なくともそうした生き方を唯一の正しさとみなす必然性は全くないのでは?

もう少し言ってしまいますと、進化や発展というのは、もともと、環境に適応することを指すもののはずです。一番分かりやすい例えが、生命の進化でしょう。人類の文化についても同じです。パピルスが羊皮紙に変わったのも、エジプトからの葦が市場に回りにくくなったために新しい材料を見いださざるをえなかったからですし、産業革命がイギリスで起こったのも、新大陸の発見で資源が豊富に流入し、需要も爆発的に増え、大量処理、定量的な経営へ移行せざるをえなかったからでしょう。そういう、環境への適応こそが発展であり、進化であるはずです。

それにもかかわらず、リソースの有限さや必要性に省みない、発展という概念にとらわれるのも、実に貧相であると思います。

4. なんでギリシャ語やらないの!?

さて、仕事で時間を費やして、それで、お金がバンバンもらえるようになる。いいでしょう。
がんばれば費やした労力以上の評価とお金が入ってくるようになるかもしれません。

では、何かをして時間を費やして、幸福度がバンバン増すようになるその何かを、貴方はしてますか?

ギリシャ語なんかなんでやってるの?と聞かれます。
いやいや、なんでギリシャ語やらないの!?

人生は時間です。仕事のしすぎは時間の浪費、人生の浪費といえます。
幸福度を増すような方向を、なぜ目指さないのでしょうか。

お金がたくさんある状況、素晴らしいと思います。では、その後はどうするの?いつ幸福度を上げることを始めるの?お金持ちになってから?いつをもって満足するの?

それとも、仕事に生きることが幸せでしょうか。本当にそうですか?スティーブジョブズですら、仕事に生きて世界を変えたにもかかわらず、死の直前、自分自身は喜びの少ない人生であった、もっと自分を大切にすべきであったと言っているのに!それとも貴方はスティーブジョブズを超える人間ですか?

そしてもうひとつ大切なこと。
幸福な精神のキャッシュフローを生み出すために必要なその何かというのは、お金では、残念ながら買えません。どんなにお金を払っても、時間をかけなければ精神の資産は形成できません。それは、人間というハード自体は変わらないからです。時間をかけなければギリシャ語も分かるようにはならないでしょう。

仕事だけで時間を食い潰した方には、残念ながら、そのための時間はあまり残されていません。

ツキュディデス「歴史」輪読開始!

さて、今月からツキュディデス「歴史」の原典輪読が開始した次第ですが、このコースは実のところ数年前から始まっています。
私を含め昨年からギリシャ語を始めた人は輪読は初心者です。そうした人のために、この半年間はクセノフォン「スパルタ人の国制」を読むという形でギリシャ語を読解する練習をさせていただいていました。

というわけで、この「歴史」の途中から読むということになりました。とはいえ、まだ第2巻の59節からということ(全体的には8巻からなります)。有名なペリクレスの演説の直前から始まりました。

実は日本語でも「歴史」を読んだことはありませんでした。ヘロドトスの歴史を読んで古代ギリシャにハマった者としてお恥ずかしい限りですが、しかしながら、初めてしっかり読んだツキュディデス「歴史」の文が古典ギリシャ語そのものであったことは幸せです。

さて、この「歴史」ですが、紀元前5世紀後期のギリシアの雄アテナイVSスパルタの直接戦争を、当時アテナイ側の将軍として戦争にも参加したツキュディデス自身が綴ったものです。

ペルシャ戦争で、ギリシャ連合軍が超大国ペルシャを破って、ギリシャに平和と繁栄をもたらした事実について触れた後、その立役者となったアテナイと、もともとのギリシャの大国スパルタ間の緊張、冷戦、代理戦争、そして直接戦争へと話を進めます。どこかで聞いたことのあるような話ですね。第二次世界大戦後のアメリカとソ連の対立の経緯と瓜二つです。もっとも、後者については、核兵器の存在もあって、直接戦争は免れていますが。。

ツキュディデスは第1巻の22節で次のように語っています。

「私の記録からは伝説的な要素が除かれているために、これを読んでおもしろいと思う人は少ないかもしれない。しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性のみちびくところふたたびかつてのごとき、つまりそれと相似た過程をたどるであろうから、人々が出来事の真相を見きわめようとするとき、私の歴史に価値をみとめてくれればそれで充分である。」(「トゥキュディデス 戦史」久保正彰訳 中央公論新社)

今後数年にわたって、この「歴史」を読み込むことができるという機会を得られたことは本当にラッキーです。ツキュディデスの言うところの「人間性」に少しでも触れられればと思います。

古典語読解は第2巻の59節からですが、それまでの部分を日本語で読んでみた際、はっとさせられる文に出会いました。ペリクレスの葬礼演説(第2巻35節)に書かれていた部分です。最後に引用します。

「他者への賛辞は聞き手の自信を限界とし、その内にとどまれば素直に納受されるが、これを越えて賛辞を述べれば、聞き手の嫉妬と不信を買うにとどまる。」(同)