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イリアスの10世紀写本がネットで見られた!

今は素晴らしい時代です。こういうことを率先してできる欧米の大学はやはり進んでいるものと言わざるを得ません。古代ギリシャや古代ローマを自分たちの古典とみなしている彼らとしては当然なのでしょうが(なお、古代ローマ人もまた、古代ギリシャを自分たちの古典と位置付けています)。

ハーバード大学の運営するプロジェクト、‘Homer Multitext project’では、10世紀ころに書き写されたイリアスの写本をネット上で見ることができます。その画像は極めて鮮明で、実物を間近で見たときとほぼ変わらない程度です。画像を拡大すると細かい筆圧や筆の使い方を確認できます。

homermultitext.org
イリアス写本

この画像をオープンにすることで、できるだけ昔に遡った原典に近いイリアスを後世に残すこと、そして研究者の研究に資することを目的としているようです。本当にすばらしいですね。古代ギリシャ語の勉強が進んだのち、ぜひこの中世写本それ自体を読むことで、古代のすぐれた作品の真髄に触れられたら嬉しいです。

ところでこの「イリアス」。紀元前800年ころ、ギリシャアルファベットがフェニキア人からギリシャにもたらされ、ギリシャがミケーネ文明以来の文字を保有する社会へと変わろうとしていた頃、偉大な詩人ホメロスにより作られたとされています。非常に長い叙事詩で、岩波文庫でも2冊に分かれており、その一冊ずつも相当に分厚いものです。もっとも、ホメロスの時代はアルファベットがそれほど浸透していない時期であるため、百年は口頭で歌われ継がれたとされています。紀元前5世紀ころに、アテナイ僭主ペイシストラトスにより本格的に編纂、文体化されたそうです。その後もエジプトから輸入したパピルスを用いて写され、中世を通してパピルスや羊皮紙に書き写され続けたことで我々がその内容を知ることができます。

パピルスはもろく、100年程度で朽ちてしまうため、書き写し作業は中世を通して行われました。紀元後には羊皮紙という、より丈夫な紙ができたため、相当長持ちしたそうですが、それでも書き写しは継続されました。前半の1000年はパピルス、後半の1000年は羊皮紙で書写され続けたそうです。

古代の作品は今にも数多く伝わっているとはいえ、失われた作品の方が圧倒的に多いことでしょう。中世という、生き残ることすら厳しい時代、古代の書物を残すことだけに力を注ぐわけにもいきませんから、どの書物を書き写すか、当然、取捨選択はされました。その中でも、ホメロスのイリアスとオデュッセイアは特に後世に残すべく、選択されたことでしょう。

中世で書き写しを行った人は、主にビザンツ帝国(後期ローマ帝国(東ローマ帝国))内の修道院の修道士たちです。ローマ帝国が東西に分裂した後、東ローマ帝国はもともとギリシャ人の植民都市であったビザンティオンを首都として発展しましたが、その担い手はもはや純然たるローマ人ではなく、ローマ人を名乗るギリシャ語を話すギリシャ人たちでした。そして宗教は、キリスト教です。キリスト教の教えにそぐわない書物は書き写されないどころか、燃やされたものもありました。

ともあれ、キリスト教の修道士たちが、大昔の異教の神を崇めるイリアスの書を伝え続けたことは驚くべきことです。信仰はどうであれ、後世に継がなければならない価値を認めざるを得なかったのでしょう。

ハーバード大学のプロジェクトにより私たちはこの貴重な写本を簡単に見ることができますが、写本自体にも歴史があること、そしてこの書き写しをした修道士たちの心境などにも、思いを巡らさずにはいられないのです。