なんでギリシャ語なんかやってるの?いやいや、なんでやらないの!?

1. 精神の資産形成

一時期(今でも?)「意識高い系」という言葉が流行りましたが、仕事やキャリアに対する日本人の熱意は恐るべきもののように思います。

さて、今日は、現在では既に使われていない古代のギリシャ語に親しむことが、いったいどういう意味をもつのかについて、ちょっとラディカルに考えてみたいと思います。

古典ギリシャ語を趣味にすること。それは、自分の精神の資産形成になるものと考えています。

資産という言葉を使ってしまいましたので、お金の問題と対比してみます。

お金を稼ぐことについてよく言われることがあります。
まず、労働は、自分の時間を切り売りするものであって、それによってお金を得られるけれども、それ以上後には何も残りません。
自分の時間の対価としてお金を得ても、それはそれ以外の自分の時間を過ごすための費用として消費されてしまい、その後はまた労働をしなければ生きていけなくなります。

一方、会社や組織、あるいは投資用不動産などの資産形成のために努力したならば、それによって出来たシステムがお金を作り出します。つまり、努力をその時点でやめたとしても、お金が自動的に入ってくる仕組みになります。それこそが資産というものです。

こうしたことは良く言われている。本屋にいくらでも平積みされています。
しかし、目下のお金のことばかりに、日本人は関心があるのか、精神面の資産形成については言及された本がほとんどありません。

当然のことながら、精神はお金よりも大事です。それは誰も争わないのではないでしょうか。
それにもかかわらず、このことがこれまでほとんど問われていないのが不思議でなりません。

次々と喜びを生み出す精神資産。これが、最低限の生活が確保できた後は、最も大切なものであることは明らかでしょう。
そして、ギリシャ語をやるということは、絶えず喜びを生み出してくれる、この精神資産の形成といえます。

2. 精神のキャッシュフロー

世の中には色々な趣味があります。
パチンコ、マンガ、映画鑑賞、旅行、ゴルフ、etc.

異論はあるかもしれませんが、これらはあまり後に大切なものを残さないような寂しさがあります。食べてしまったご飯のごとく、その時間を経験した後に残って溢れだす何かが無いのです。

一方で、ギリシャ語(をはじめとする古典語や古典そのもの)は、ゴルフやパチコンとは違い、常にその何かを生み出します。それは、言わば精神のキャッシュフローとでも言えるものでしょう。
これこそが、その他の趣味との違いです。
それはあたかも、労働と資産形成が、行動を止めてもなおキャッシュフローを生み出すかどうかによって区別されるかの如くです。

それでは、どんな風に精神のキャッシュフローは生み出されるか?
例えば、こんな風に。

はるかミケーネ時代から始まったギリシャ語、もともとインドヨーロッパ語族の一派であり、バルカン半島南下が古代のいつ頃であったのか、そういえば同じくインド・ヨーロッパ語族であり長い間人類の記憶から消えていたヒッタイト帝国が彼らと別れたのはいつ頃であったのか、そしてペルシャ戦争に勝利をし自信にあふれたギリシャにアテナイの覇権が及びその勢いを恐れたスパルタとの激突があり、彼らが内向きな紛争に明け暮れていた隙にマケドニアよりフィリッポスが怒涛のごとくギリシャ全土を席巻し、ギリシャ人自身によってはとうとう成し遂げられなかったギリシャの統一を実現し、その子アレクサンドロス大王によって率いられたマケドニア・ギリシャ軍がペルシャを滅亡させ、はるかインドにまで至る巨大な帝国を作り上げ、そこにギリシャ文化を浸透させてヘレニズム時代を作り上げ、ギリシャ語は世界公用語となりカエサルやキケロをしゃべらせ、新約聖書を綴り、ローマ帝国分裂後はラテン語に代わり東ローマ帝国の公用語としてローマ法大全の一部を彩り、首都コンスタンティノープルは古代ギリシャ文化の宝庫としてその価値を守りぬき、コンスタンティノープル陥落と共に一級のギリシャ語資料と学者がコンスタンティノープルから逃れイタリア半島へ到達しルネッサンスに寄与した後、ヨーロッパの「古典」としての地位を取り戻し、現在に連なる西洋精神の真髄を作り出し、一方、長きに渡りオスマン・トルコ支配下にあり19世紀になってようやくトルコからの独立を勝ち取ったギリシャの歩みは決して順調なものではなく、はるか古代より小アジア沿岸沿いに発展していたギリシャ系都市に住んでいた偉大なイオニア人の子孫らは歴史を捨て本土へ幾千年ぶりに戻らざるを得なくなった住民交換の悲劇を経験し、いつしか必ずコンスタンティノープルを奪還するという壮大なメガリ・イデアは夢やぶれて、その後も偉大すぎる過去に引きずられたままディモティキとカサレブサの対立を経験し、ようやく現代のギリシャの平安が訪れて・・・

駅のホームで電車を待っているときや、駅から事務所へ歩いている道のりでも、私はギリシャのことばかり考えています。もちろん、私もまだまだギリシャ初心者の部類ですが、そんなまだまだな私でさえ、ギリシャという切り口から豊富なアイデアや感情が次々と湧き出てきます。

3. 日本人の「普通」への信望の根強さ

ギリシャ語(をはじめとする古典語や古典そのもの)への関心がもう少し上がって、活性化してくれるといいなあと思います。いや、これほど楽しいものですから、もっと活性化する余地は十分にあるはずです。

一人一人が好きなことを見つけ、エネルギーを注入し、自分自身の人生を生きる。私はこれこそが幸福な国の条件だと思っていますが、なんだかんだで日本はまだまだだなと思います。
普通のやり方では生き残れないとか、普通のアイデアではビジネスにならないなどと言われますが、結局は大きな普通の生き方という枠組みの中で、より良く普通に生きる小手先の手段のように思えてなりません。「普通」であること、「普通」のやり方というのが、まだまだ猛威を振るっているわけです。
本当の意味で人々の関心が多様化されていないのではないかと思います。関係性というものが、実に貧相です。

関係性の貧相さを象徴するものがあります。
それは、多くの日本人が仕事に神聖さを抱いているという現象です。これは緩和されてきているとはいえ、まだまだ根強いですね。
はっきり言って、労働は奴隷的です。だって、その労働をしなくても同じだけのお金をもらえるのであれば、しないのではないですか?ということは、本当にしたいことではありませんよね?
こんなものに、神聖さを感じてどうするのでしょうか。
でも、日常のものであり、人生の大半をそれによって過ごすものであるためか、労働を正当化するための自己啓発書などを読んで安心してしまう方は多くいます。

ビジネスを通して世界を変えるのだ!と息巻いている人もいます。そういう人のおかげで暮らしが便利になっている側面もありますので、そういう人を心からリスペクトしますし、そういう生き方もあると思いますので、反対しません。でも、それを正しいものとして他人にも求めるのは違うでしょう。大多数の人は世界を変えようとするほどまでの考えや情熱は持っていないのでは?そして無理に持つ必要もないのでは?少なくともそうした生き方を唯一の正しさとみなす必然性は全くないのでは?

もう少し言ってしまいますと、進化や発展というのは、もともと、環境に適応することを指すもののはずです。一番分かりやすい例えが、生命の進化でしょう。人類の文化についても同じです。パピルスが羊皮紙に変わったのも、エジプトからの葦が市場に回りにくくなったために新しい材料を見いださざるをえなかったからですし、産業革命がイギリスで起こったのも、新大陸の発見で資源が豊富に流入し、需要も爆発的に増え、大量処理、定量的な経営へ移行せざるをえなかったからでしょう。そういう、環境への適応こそが発展であり、進化であるはずです。

それにもかかわらず、リソースの有限さや必要性に省みない、発展という概念にとらわれるのも、実に貧相であると思います。

4. なんでギリシャ語やらないの!?

さて、仕事で時間を費やして、それで、お金がバンバンもらえるようになる。いいでしょう。
がんばれば費やした労力以上の評価とお金が入ってくるようになるかもしれません。

では、何かをして時間を費やして、幸福度がバンバン増すようになるその何かを、貴方はしてますか?

ギリシャ語なんかなんでやってるの?と聞かれます。
いやいや、なんでギリシャ語やらないの!?

人生は時間です。仕事のしすぎは時間の浪費、人生の浪費といえます。
幸福度を増すような方向を、なぜ目指さないのでしょうか。

お金がたくさんある状況、素晴らしいと思います。では、その後はどうするの?いつ幸福度を上げることを始めるの?お金持ちになってから?いつをもって満足するの?

それとも、仕事に生きることが幸せでしょうか。本当にそうですか?スティーブジョブズですら、仕事に生きて世界を変えたにもかかわらず、死の直前、自分自身は喜びの少ない人生であった、もっと自分を大切にすべきであったと言っているのに!それとも貴方はスティーブジョブズを超える人間ですか?

そしてもうひとつ大切なこと。
幸福な精神のキャッシュフローを生み出すために必要なその何かというのは、お金では、残念ながら買えません。どんなにお金を払っても、時間をかけなければ精神の資産は形成できません。それは、人間というハード自体は変わらないからです。時間をかけなければギリシャ語も分かるようにはならないでしょう。

仕事だけで時間を食い潰した方には、残念ながら、そのための時間はあまり残されていません。