高津春繁『ギリシア語文法』(岩波書店)

1年前の記事、「古典ギリシャ語「中級の下」からの脱出法!」で、オススメな文法書として(オススメする資格があるのかは置いておいて)、オックスフォードのOxford Grammar of Classical Greekを挙げさせていただいていました。
が、その後私が最近よく使うようになったのは、表題の、高津春繁先生の『ギリシア語文法』です。

1960年の出版だそうですが、近年よく絶版になっている一方で、底堅い人気がありました。ところが、日本語で書かれた唯一の本格的ギリシャ語文法書であるためか、ついに岩波書店がオンデマンド印刷で提供をはじめました。

ある程度の力が付く前に読むのは逆に混乱をもたらすかもしませんが、極めて有意義な本です。
最近はこちらを持ち運び座右の書にすべく奮闘中です。見た目よりは軽いですが、持ち運ぶにはかなりかさばります。私はこの本を持ち運ぶためだけにバッグを変えました。

高津先生は、言語学者です。印欧語全体を視野に入れ、それへの理解を背景にして書かれています。文法のハウツー本ではありません。「ギリシャ語を考える文法書」とでも言いましょうか。
言語というのは、文法ルールに寄っているわけですが、必ずしも、なぜそうなるのかどうしてそうなったのかを説明できるわけではありません。言語というのが複雑系の世界の中で進化していくものですから、それは当然でしょう。したがって、多くの文法書では、「そうなるとしか言いようがない」ために、文法規則の理由や背景にまでは踏み込みまないのですね。

ところが、高津先生は、他の印欧語にも良く通じた言語学者としての膨大な知識を背景に、文法規則の理由(Whyの部分)や背景(Howの部分)に踏み込んだ説明をするのです。それによって読者はギリシャ語文法を歴史の時間的流れを視野に立体的に理解することができるのです(そのように感じました。)。

一方、定評のある英語の文法書は、考える文法というよりは、あらゆる例外も漏らさないで紹介する百科事典的側面が強いと思います。高津先生の文法書はそうした姿勢とは対極のものと言っても良いのかもしれません。
高津先生の文法書は、他の文法書と同様、多くの例文を掲げ、変化表ももれなく挙げられており、目前のギリシャ語を解読するに際しても不便を感じません。少々分厚い書ではありますが、自分なりにインデントしやすく工夫すれば問題ではないと思います。

この本がもし英訳されていたら、世界最高峰の文法書の地位に立ちうるのではなかろうか?と思ったりしますが、それはSmythやGoodwinを読み込めていない私の浅慮の可能性がありますのであまり言えません。。

何れにしても、当面はこの高津先生の文法書を中心にギリシャ語に触れ、「ギリシャ語を考える」営為を楽しんでいきたいと思っています。

ドイツ語から見たギリシャ語・ラテン語。そして英語。

ところで、この2年ほど、片手間でドイツ語の文法について確認をしていました。
その理由は、ギリシャ語、ラテン語の属するインド・ヨーロッパ語族の一員であるゲルマン語を知っておきたい、それによってインドヨーロッパ語の概観を見通しておきたいと思ったからです。

ゲルマン語の一つに、私たちが中学から習ってきた英語があります。ところが、英語はゲルマン語派に属するとは言いつつも、複雑な歴史の過程で格変化を失い、動詞の活用も著しく圧縮されました。その結果、ほとんど膠着語(日本語や中国語のように単語自体は文法上変化しない言語)のごとき様相をなすに至り、ゲルマン語の正当な継承者とは言いづらい状況にあります。

この2年ほどでドイツ語を概観でき、かなり収穫があったと思います。ドイツ語力は全然つきませんでしたが!でも、ギリシャ語やラテン語との比較の中で、これらの言語の位置付けのようなものを感じ取ることができました。

やはり英語やドイツ語を始めとするゲルマン語も、ラテン語とギリシャ語の兄弟だということですね。

以下はギリシャ語・ラテン語・ドイツ語を概観して思った備忘録です。ドイツ語を本気で学ぶ機会が再度訪れるか分かりませんので、残しておきました。
(備忘録のため、まとまりもありません。読み飛ばしてくださればと思います。)

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【ラテン語の特徴(ギリシャ語との比較から)】

ラテン語はアオリストがなく、希求法もない。中動態もない。ギリシャ語の複雑な規則とは代わって、かなりすっきりとしている印象。

ラテン語ではアオリストの代わりに完了形の役割が大きい。

ただし名詞・形容詞に関して、ラテン語では奪格が残っている。
ギリシャ語は第三変化まで、ラテン語は第五変化まである。

ラテン語において分詞の種類は減少。現在分詞、受動の完了分詞、未来分詞しかない。
接続法がギリシャ語で言う所の希求法の役割も担う。
逆に、接続法の役割が多すぎて判断が難しいのが欠点。

ラテン語では間接話法に関していわゆるthat節がない。不定法構文のみ。

ギリシャ語は規則が多いためか、ラテン語よりも重複した変化形が少ない。
もっとも、ラテン語は、奪格が残っている点や動名詞がある点で、単にギリシャ語より簡略なのではなく、別のルートで発展した古い形態だと感じる。

【ドイツ語の特徴(ギリシャ語・ラテン語との比較から)】

形容詞の述語的同格の場合に格変化しない。
語順の自由さ加減でギリシャ語ラテン語と差がある。定動詞第2位の原則など。読むには便利な法則。

接続法の役割がかなり限られている印象。
言語としてはギリシャ語ラテン語よりも簡略化されているように感じる。

助動詞の役割が大きい。
一方で、ギリシャ語やラテン語は過去形だけでなく、完了や未来など独自の変化を持つ。なので覚えるべき変化はドイツ語に比べて比較にならないほど。

アオリストは当然?存在しない。
過去系も役割が減少して完了形がその機能をかなり担っているようである(もっともこの点はラテン語も同じ。)。
中動態はなく、受動態も固有の形はない。
しかし、再帰動詞が中動態の不存在をカバーしている感がある。

なお、英語は覚えるべき規則は少ないが、知っておくべき慣習が多いのかもしれない。英語学習の困難さはそこに見いだせるかもしれない。

Be動詞を使って完了形を作るやり方はギリシャ語やラテン語でも片鱗が見られる。
ギリシャ語では、閉鎖音語幹動詞の中動態・受動態の完了の三人称複数ではeimiと分詞が使われる。もっとも、分詞自体、性に応じた変化はある。
ラテン語では、受動の完了にて、sumの人称変化と共に分詞が使われる。もっとも、分詞自体、性に応じた変化はある。

ドイツ語は、ラテン語よりもさらに変化が重複している。その不便さは語順で補う。
述語的同格の場合の不変化も特徴的。
なお、述語的同格のときで、特にSeinでない動詞の時に、副詞になるという教科書的説明があるが、ギリシャ語とラテン語をやればこれが本来述語的同格にある形容詞にすぎないことがよく分かる。形容詞が述語的同格の場合でも、形容される名詞と性数格の一致が要請されているから。
もっとも、ギリシャ語でも形容詞の中性対格は副詞化するとされたり、ラテン語でも奪格の副詞化があるので、ドイツ語のこれをすべて副詞と見るのはできなくはないかもしれない。

ドイツ語の格変化は少なくともギリシャ語に比べればかなり簡略化されたものと感じる。
ドイツ語の難しさはむしろ名詞の特性に基づくのでは性を識別できないところであろうか。
また、与格の役割が増大していて、与格への負担が大きいと感じる。
もっとも、その与格も前置詞を伴う場合が多いから、与格自体の変化の必要性も薄れていく可能性を感じる。すでに英語では変化が消滅しているが、よく理解できる。

主格と対格の、男性単数以外の同形化は、英語で実際に起こった変化を辿ることを予感させる。前置詞を使わない場合の格の多くは主格か対格なのだから、たまに出てくる与格に変化を残させる必要性は乏しいのだろう。

不定冠詞はギリシャ語ラテン語にはない。英語にはある。

ところで、アイスランド語やゴート語は古形を残していたと聞く。
なので、ドイツ語に萌芽が見られ、英語で実現した簡略化が、ゲルマン語固有のものなのか、これを判断する能力は今の私にはない。

【ドイツ語と英語の比較】

基本的に格変化の有無と言える。もちろん英語はノルマンコンクエストの影響で、ブリテン島が一時期フランス語を公用語としていたことから、ラテン語を起源とする語彙の乱入によりボキャブラリーが混乱状態とも言える状況。
それが今の英語習得の困難さの遠因になっていることは周知の事実。

もっとも、このボキャブラリーの混乱が、文法構造の簡素化を促進させたのではないかと思ったが、もう少し学んでみたいところ。

英語は変化しなくなった。膠着語とほとんど変わらない。ドイツ語よりもさらに語順に頼る傾向。
思考経済のスリム化を感じる。

なお、そうした中でも、過去形の機能はドイツ語よりも英語の方が維持できているように感じる。

支配言語は簡略化するという傾向にあるのだろうか。ノンネイティブの学習に応じて。ギリシャ語でも新訳聖書を綴るコイネーギリシャ語はすでに古典期アッティカ方言を簡略化したものであるとのこと。

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インド・ヨーロッパ語への関心が続く限り、こうした探求も続けようと思います。

ギリシャ悲劇-エウリピデス「バッカイ」輪読参加!

4月に入り、心機一転してエウリピデスの「バッカイ」の輪読に参加することにしました。

同じことを続けるのも大事ですが、違った視点からやってみる、というのも重要なようです。まだ一回しか参加していませんが、「バッカイ」のコロスの歌う箇所を読み、ギリシャ語に秘められている多様性をみることができました。

バッカイはご存知の通り、ブドウ酒の神であるディオニュソスと、テーバイ創始者名高きカドモスの孫であるペンテウスの対話を中心とし、最後にペンテウスの身体が実母によりバラバラにされる様子をドラマチックに描くものです。

とは言っても、エウリピデス悲劇に通じるところですが、アクション場面そのものは使者の伝言を通じて登場人物に届けられる形です。
ギリシャ悲劇はもともと合唱であったのが、徐々にセリフが入り、それが劇になっていったという背景ですので、それは至極当然なのかもしれません。
(個人的には、早稲田大学のグリークラブが、合唱をメインとしつつ、寸劇風に移行していったことを想起させます。)

合唱文化は、ギリシャ民族の中でも、もともとドーリス系を起源とするものらしく、悲劇作品中、セリフはアッティカ(アテネを中心とする地域)方言、そして合唱部分はドーリス方言が利用されています。ドーリス方言は初めてでしたので、若干読みづらいものではありましたが、先生の手ほどきによりなんとかついていけました。作者はアテナイ人ですので、ドーリス方言を使用するとはいっても、似非大阪弁のような、アテナイ人でも創作できる不完全かつ簡易なドーリス方言とのこと。確かに、アッティカ方言(すなわち古典ギリシャ語)を学んでいれば、合唱隊の歌部分もそれなりに理解は可能でした。

これまで散文ばかり読んでいましたので、ドーリス方言に触れることで、また少し違った角度からギリシャ語と向き合えそうで楽しく思います。
散文よりも、ギリシャ語を「解読」する側面が大きく、暗号解読的な側面が好きな人は向いているかもしれません。

そういえば、先日読んだ部分では、ディオニュソスをバカにしていたペンテウスに関して、コロスたちが「正義よ、現れて進め!」と述べてペンテウスの死を予告する箇所がありました。先生曰く、正義が「現れる」というのは、普段正義というものは隠れているという観念があったからということ。そして何かが損なわれたとき、正義の女神が現れ、やってくるのだと。
罰されるという意味の言葉をギリシャ語で表すとき、「正義を渡す」「正義に渡す」と記述するのですが、ようやく長年の疑問が繋がってきました。

このような新しい発見も、これまでとは違った角度からギリシャ語に触れてみたからこそです。
これからも新しい発見ができることを期待しつつ、精進していきます。