GoodWin の”A Greek GRAMMAR”は素晴らしかった

ついに、Goodwinの“A Greek Grammar”を本格的に読み始めました。
世界的な権威のある文法書ですが、すごく分かりやすい英語が使われていて、むしろ通読に適していると思います。

そうです、このレベルの文法書にようやく本格的に触れることができるようになりました!
ギリシャ語を始めて5年が経過しましたが、同じタイミングでギリシャ語を始めて、2年目くらいにすでにSmithやGoodwinを参照する方を横目に、羨ましさを感じながら、自分のレベルに適した文法書で進めてきました。
それがOxfordの出している“Classical Greek Grammar”なのですが、ようやく、Oxfordのこの本をレバレッジにして、Goodwinに辿り着くことができた感じです。

2年目にGoodwinを開いていたら、どうだったでしょうか。
間違いなく、すぐに放り出していたでしょう。
辞書的に分厚い本を利用するのが得意な方であれば、2年目くらいから使えるかもしれませんが、私にはできなかったと思います。

Goodwinの素晴らしい点は以下の通りです。
・英語が分かりやすい。
・文法事項が網羅的に説明されていて安心できる。
・文法規則の重要度の見極めがしやすい。
・文法的な用例の量が憎いほどちょうど良い。
・巻末の動詞一覧が使いやすい。
・持ち運び可能な大きさ。
(欠点:辞書的な使い方は難しいかも)

もっとも、Goodwinを使えるようになったのは、紛れもなく、Oxfordの”Classical Greek Grammar”を読み込んでいたおかげです。文法規則の構造と重要な規則そのもの、そして格変化、動詞変化がおおよそ頭に入っていたおかげで、細部に入りがちなこうした文法書でも、全体を意識しながら読めるようになりました。それから、ボキャブラリーが増えたおかげで、例文に目を通すストレスが減ったのも大きいです。

なお、同じGoodwinでも、とても評判の良い”Syntax of the moods and tenses of the Greek verb”は、英語が若干引っかかるのと、用例が多すぎるせいで、まだ私には難しいようです。。
(また、Smithは私の中では百科事典です。)

ひとまず、座右の参考書を、Oxfordの”Classical Greek Grammar”から、このGoodwinの”A Greek Grammar”へ徐々に移行して行き、さらなるステップアップを図っていければと思います!

高津春繁『ギリシア語文法』(岩波書店)

1年前の記事、「古典ギリシャ語「中級の下」からの脱出法!」で、オススメな文法書として(オススメする資格があるのかは置いておいて)、オックスフォードのOxford Grammar of Classical Greekを挙げさせていただいていました。
が、その後私が最近よく使うようになったのは、表題の、高津春繁先生の『ギリシア語文法』です。

1960年の出版だそうですが、近年よく絶版になっている一方で、底堅い人気がありました。ところが、日本語で書かれた唯一の本格的ギリシャ語文法書であるためか、ついに岩波書店がオンデマンド印刷で提供をはじめました。

ある程度の力が付く前に読むのは逆に混乱をもたらすかもしませんが、極めて有意義な本です。
最近はこちらを持ち運び座右の書にすべく奮闘中です。見た目よりは軽いですが、持ち運ぶにはかなりかさばります。私はこの本を持ち運ぶためだけにバッグを変えました。

高津先生は、言語学者です。印欧語全体を視野に入れ、それへの理解を背景にして書かれています。文法のハウツー本ではありません。「ギリシャ語を考える文法書」とでも言いましょうか。
言語というのは、文法ルールに寄っているわけですが、必ずしも、なぜそうなるのかどうしてそうなったのかを説明できるわけではありません。言語というのが複雑系の世界の中で進化していくものですから、それは当然でしょう。したがって、多くの文法書では、「そうなるとしか言いようがない」ために、文法規則の理由や背景にまでは踏み込みまないのですね。

ところが、高津先生は、他の印欧語にも良く通じた言語学者としての膨大な知識を背景に、文法規則の理由(Whyの部分)や背景(Howの部分)に踏み込んだ説明をするのです。それによって読者はギリシャ語文法を歴史の時間的流れを視野に立体的に理解することができるのです(そのように感じました。)。

一方、定評のある英語の文法書は、考える文法というよりは、あらゆる例外も漏らさないで紹介する百科事典的側面が強いと思います。高津先生の文法書はそうした姿勢とは対極のものと言っても良いのかもしれません。
高津先生の文法書は、他の文法書と同様、多くの例文を掲げ、変化表ももれなく挙げられており、目前のギリシャ語を解読するに際しても不便を感じません。少々分厚い書ではありますが、自分なりにインデントしやすく工夫すれば問題ではないと思います。

この本がもし英訳されていたら、世界最高峰の文法書の地位に立ちうるのではなかろうか?と思ったりしますが、それはSmythやGoodwinを読み込めていない私の浅慮の可能性がありますのであまり言えません。。

何れにしても、当面はこの高津先生の文法書を中心にギリシャ語に触れ、「ギリシャ語を考える」営為を楽しんでいきたいと思っています。

ドイツ語から見たギリシャ語・ラテン語。そして英語。

ところで、この2年ほど、片手間でドイツ語の文法について確認をしていました。
その理由は、ギリシャ語、ラテン語の属するインド・ヨーロッパ語族の一員であるゲルマン語を知っておきたい、それによってインドヨーロッパ語の概観を見通しておきたいと思ったからです。

ゲルマン語の一つに、私たちが中学から習ってきた英語があります。ところが、英語はゲルマン語派に属するとは言いつつも、複雑な歴史の過程で格変化を失い、動詞の活用も著しく圧縮されました。その結果、ほとんど膠着語(日本語や中国語のように単語自体は文法上変化しない言語)のごとき様相をなすに至り、ゲルマン語の正当な継承者とは言いづらい状況にあります。

この2年ほどでドイツ語を概観でき、かなり収穫があったと思います。ドイツ語力は全然つきませんでしたが!でも、ギリシャ語やラテン語との比較の中で、これらの言語の位置付けのようなものを感じ取ることができました。

やはり英語やドイツ語を始めとするゲルマン語も、ラテン語とギリシャ語の兄弟だということですね。

以下はギリシャ語・ラテン語・ドイツ語を概観して思った備忘録です。ドイツ語を本気で学ぶ機会が再度訪れるか分かりませんので、残しておきました。
(備忘録のため、まとまりもありません。読み飛ばしてくださればと思います。)

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【ラテン語の特徴(ギリシャ語との比較から)】

ラテン語はアオリストがなく、希求法もない。中動態もない。ギリシャ語の複雑な規則とは代わって、かなりすっきりとしている印象。

ラテン語ではアオリストの代わりに完了形の役割が大きい。

ただし名詞・形容詞に関して、ラテン語では奪格が残っている。
ギリシャ語は第三変化まで、ラテン語は第五変化まである。

ラテン語において分詞の種類は減少。現在分詞、受動の完了分詞、未来分詞しかない。
接続法がギリシャ語で言う所の希求法の役割も担う。
逆に、接続法の役割が多すぎて判断が難しいのが欠点。

ラテン語では間接話法に関していわゆるthat節がない。不定法構文のみ。

ギリシャ語は規則が多いためか、ラテン語よりも重複した変化形が少ない。
もっとも、ラテン語は、奪格が残っている点や動名詞がある点で、単にギリシャ語より簡略なのではなく、別のルートで発展した古い形態だと感じる。

【ドイツ語の特徴(ギリシャ語・ラテン語との比較から)】

形容詞の述語的同格の場合に格変化しない。
語順の自由さ加減でギリシャ語ラテン語と差がある。定動詞第2位の原則など。読むには便利な法則。

接続法の役割がかなり限られている印象。
言語としてはギリシャ語ラテン語よりも簡略化されているように感じる。

助動詞の役割が大きい。
一方で、ギリシャ語やラテン語は過去形だけでなく、完了や未来など独自の変化を持つ。なので覚えるべき変化はドイツ語に比べて比較にならないほど。

アオリストは当然?存在しない。
過去系も役割が減少して完了形がその機能をかなり担っているようである(もっともこの点はラテン語も同じ。)。
中動態はなく、受動態も固有の形はない。
しかし、再帰動詞が中動態の不存在をカバーしている感がある。

なお、英語は覚えるべき規則は少ないが、知っておくべき慣習が多いのかもしれない。英語学習の困難さはそこに見いだせるかもしれない。

Be動詞を使って完了形を作るやり方はギリシャ語やラテン語でも片鱗が見られる。
ギリシャ語では、閉鎖音語幹動詞の中動態・受動態の完了の三人称複数ではeimiと分詞が使われる。もっとも、分詞自体、性に応じた変化はある。
ラテン語では、受動の完了にて、sumの人称変化と共に分詞が使われる。もっとも、分詞自体、性に応じた変化はある。

ドイツ語は、ラテン語よりもさらに変化が重複している。その不便さは語順で補う。
述語的同格の場合の不変化も特徴的。
なお、述語的同格のときで、特にSeinでない動詞の時に、副詞になるという教科書的説明があるが、ギリシャ語とラテン語をやればこれが本来述語的同格にある形容詞にすぎないことがよく分かる。形容詞が述語的同格の場合でも、形容される名詞と性数格の一致が要請されているから。
もっとも、ギリシャ語でも形容詞の中性対格は副詞化するとされたり、ラテン語でも奪格の副詞化があるので、ドイツ語のこれをすべて副詞と見るのはできなくはないかもしれない。

ドイツ語の格変化は少なくともギリシャ語に比べればかなり簡略化されたものと感じる。
ドイツ語の難しさはむしろ名詞の特性に基づくのでは性を識別できないところであろうか。
また、与格の役割が増大していて、与格への負担が大きいと感じる。
もっとも、その与格も前置詞を伴う場合が多いから、与格自体の変化の必要性も薄れていく可能性を感じる。すでに英語では変化が消滅しているが、よく理解できる。

主格と対格の、男性単数以外の同形化は、英語で実際に起こった変化を辿ることを予感させる。前置詞を使わない場合の格の多くは主格か対格なのだから、たまに出てくる与格に変化を残させる必要性は乏しいのだろう。

不定冠詞はギリシャ語ラテン語にはない。英語にはある。

ところで、アイスランド語やゴート語は古形を残していたと聞く。
なので、ドイツ語に萌芽が見られ、英語で実現した簡略化が、ゲルマン語固有のものなのか、これを判断する能力は今の私にはない。

【ドイツ語と英語の比較】

基本的に格変化の有無と言える。もちろん英語はノルマンコンクエストの影響で、ブリテン島が一時期フランス語を公用語としていたことから、ラテン語を起源とする語彙の乱入によりボキャブラリーが混乱状態とも言える状況。
それが今の英語習得の困難さの遠因になっていることは周知の事実。

もっとも、このボキャブラリーの混乱が、文法構造の簡素化を促進させたのではないかと思ったが、もう少し学んでみたいところ。

英語は変化しなくなった。膠着語とほとんど変わらない。ドイツ語よりもさらに語順に頼る傾向。
思考経済のスリム化を感じる。

なお、そうした中でも、過去形の機能はドイツ語よりも英語の方が維持できているように感じる。

支配言語は簡略化するという傾向にあるのだろうか。ノンネイティブの学習に応じて。ギリシャ語でも新訳聖書を綴るコイネーギリシャ語はすでに古典期アッティカ方言を簡略化したものであるとのこと。

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インド・ヨーロッパ語への関心が続く限り、こうした探求も続けようと思います。

ギリシャ悲劇-エウリピデス「バッカイ」輪読参加!

4月に入り、心機一転してエウリピデスの「バッカイ」の輪読に参加することにしました。

同じことを続けるのも大事ですが、違った視点からやってみる、というのも重要なようです。まだ一回しか参加していませんが、「バッカイ」のコロスの歌う箇所を読み、ギリシャ語に秘められている多様性をみることができました。

バッカイはご存知の通り、ブドウ酒の神であるディオニュソスと、テーバイ創始者名高きカドモスの孫であるペンテウスの対話を中心とし、最後にペンテウスの身体が実母によりバラバラにされる様子をドラマチックに描くものです。

とは言っても、エウリピデス悲劇に通じるところですが、アクション場面そのものは使者の伝言を通じて登場人物に届けられる形です。
ギリシャ悲劇はもともと合唱であったのが、徐々にセリフが入り、それが劇になっていったという背景ですので、それは至極当然なのかもしれません。
(個人的には、早稲田大学のグリークラブが、合唱をメインとしつつ、寸劇風に移行していったことを想起させます。)

合唱文化は、ギリシャ民族の中でも、もともとドーリス系を起源とするものらしく、悲劇作品中、セリフはアッティカ(アテネを中心とする地域)方言、そして合唱部分はドーリス方言が利用されています。ドーリス方言は初めてでしたので、若干読みづらいものではありましたが、先生の手ほどきによりなんとかついていけました。作者はアテナイ人ですので、ドーリス方言を使用するとはいっても、似非大阪弁のような、アテナイ人でも創作できる不完全かつ簡易なドーリス方言とのこと。確かに、アッティカ方言(すなわち古典ギリシャ語)を学んでいれば、合唱隊の歌部分もそれなりに理解は可能でした。

これまで散文ばかり読んでいましたので、ドーリス方言に触れることで、また少し違った角度からギリシャ語と向き合えそうで楽しく思います。
散文よりも、ギリシャ語を「解読」する側面が大きく、暗号解読的な側面が好きな人は向いているかもしれません。

そういえば、先日読んだ部分では、ディオニュソスをバカにしていたペンテウスに関して、コロスたちが「正義よ、現れて進め!」と述べてペンテウスの死を予告する箇所がありました。先生曰く、正義が「現れる」というのは、普段正義というものは隠れているという観念があったからということ。そして何かが損なわれたとき、正義の女神が現れ、やってくるのだと。
罰されるという意味の言葉をギリシャ語で表すとき、「正義を渡す」「正義に渡す」と記述するのですが、ようやく長年の疑問が繋がってきました。

このような新しい発見も、これまでとは違った角度からギリシャ語に触れてみたからこそです。
これからも新しい発見ができることを期待しつつ、精進していきます。

古典ギリシャ語「中級の下」からの脱出法!

さて、今回は古典ギリシャ語の「中級の下」からできるだけ早く脱出する方法を、具体的な教材名を挙げて提案してみたいと思います。
まずお断りしなければならないのは、私自身は紛れもなくギリシャ語中級レベルであり、「中級の下」から脱出しつつあるか、脱出したとしてもまだ間がないという点です。
しかし、私はギリシャ語「中級の下」の段階で3年ほど苦しみ、しかもまだそれほど時間が経っていないわけですから、この時期に私が言えることは、同じように悩んでいる方々に益するところが大きいと思います。

ギリシャ語初級・中級・上級の定義については、下記の記事で述べてみましたので、そちらをご参照ください。
「古典ギリシャ語初級・中級・上級の能力区分を考えてみました。」

・「中級の下」で目標にすべきはギリシャ語の「型」を身につけること!

全てに言えることですが、何かをマスターしようとすれば、その何かの基本的な「型」を身につけて、そこから追加の情報を、その「型」の中で位置付けていくことが最も効率的です。
そうでないと、体系化されていない情報を脳みその中に積み込んでいくだけで、脳みその中がただのゴミ箱のようになってしまうのです。ギリシャ語も同様であり、無秩序な状態でギリシャ語を理解することはできないでしょう。

・読み方の「型」に従う!

まずはギリシャ語の読み方の「型」を見ていきましょう。
入門クラスが終わり、実際に原典読解に入ってみると、早速手に入れた断片的な知識を使って、文章の頭から理解していこうというスタイルになりがちです。
しかし、古典語の読み方には「型」というものがあり、まずはそれに則っていかないと、文全体の理解が滞ってしまいます。
読み方の基本的な「型」は次の通りです(先生からの受け売りです。)
・まず定動詞を見つける

・その定動詞の主語を見つける

・定動詞の目的語を見つける

・そのほかの語(形容詞、副詞、小辞など)を理解する

定動詞と主語、そして目的語さえわかれば、文の基本構造はこれで十分です。そうすると、後の単語の情報は以上の3つの言葉の飾り付けですから、文の意味を理解しながら情報を追加していくことができます。
副文がある場合は、副文中の定動詞、意味上の主語、目的語を抑えておくと良さそうです。
これを、もし文の頭から理解していこうとすると、文の構造の理解が後回しになってしまい、間違った理解の上に間違った理解を重ねることになりかねません。今の能力段階では絶対に避けるべきでしょう。
これが上級レベルになると、頭から見ていっても文構造が予想できるのでしょうね・・・羨ましい限りです。

・文法情報をシンプルに体系化してくれる「座右の参考書」をボロボロにする

読み方の「型」は理解できるにしても、それに則って解読していくのは簡単ではありません。
まず主要な動詞の活用や名詞・形容詞の曲用について記憶できていなければなりませんし、条件文や原因節など、副文についての知識もまとまっていないと、やはり闇雲な理解になってしまいます。

そこで、単語の形態論と構文論に関して、自分に合った参考書をなんども見返して、血肉にする必要があると思います。
プライドが高いと、この段階で、
smythの「Greek Grammar」や、
Goodwinの「A Greek Grammar」
といった定番でかつ最高権威の参考書を手元に置こうとするのかもしれませんが、普通の人は避けた方がいいと思います。もちろん、本当に頭の良い人はそれで行けると思いますが、私には無理でした。はっきりと言います。というのは、鬱蒼と茂ったギリシャ語の森林の中の細かい用例とその説明はたくさんあるのですが、ここからはギリシャ語の体系、すなわち「型」の全貌が全然見えず、余計に道に迷ってしまい、脳みその中がゴミ箱と化していってしまったからです。

そこで私が強くおすすめするのは、
Oxfordが出している「Grammar of Classical Greek」
これです!

この本は、もちろん英文ですが、シンプルな英語でわかりやすくまとまっていることに加え、ページ数も250ページ程度に抑えられており、中級前半の段階で血肉にするにはもってこいの分量です。
さらに、その内容は薄いのかと思いきや、散文を理解するのに必要十分な情報量を盛り込んでいます。
なんというか、中級レベルの人が迷いやすいところをしっかりとフォローしてくれて、一方で余計な説明はないのです。
混同しがちな紛らわしい単語についても、その一覧が掲げられていたり、至れり尽くせりです。
また、わかりやすい変化表ももちろん整備されています。変化表の下部に注意書き的な説明部分があり、それもまたとっても親切なのです。

もちろん、田中・松平の「ギリシア語入門」や、そのほか講義で使った教科書を復習する形でも良いと思います。
ただ、Oxfordのこの本はとても要領よくまとまっており、見開き2ページ、または4ページで一項目をまとめており、何かとつけて参照がしやすいですし、「型」を把握するのにうってつけなのです。
また、いずれはSmythやGoodwinを参照しなければならない日が来ることを考えれば、この本で英文による説明に慣れておいても良いと思います。

・ボキャブラリーは必須!自然にはなかなかボキャブラリーは増えない!

さて、人間には許容できる刺激量というものがあります。
あまりにも膨大な情報量になって来ると、頭が働かなくなるという経験はどなたにでもあるでしょう。
ギリシャ語もそうではないでしょうか。つまり、辞書を引きながら原文に当たっていると、初心者ほど情報過多の状態に陥り、文の理解への障壁が高くなってしまいます。
具体的には、原文に出て来る各単語の意味が理解できず、それを一つ一つ辞書に当たって意味を調べようとするところ、辞書の中の例文もまたギリシャ語であり、当該単語の項目とにらめっこする時間が長くなり、必然的に情報過多の状態に至るのです。これに加えて構文を調べようとして参考書に当たるとより一層そうです。
これは非常なストレスであり、下手をするとギリシャ語と疎遠になってしまいかねない落とし穴です。特に入門を終えたばかりの「中級の下」の私には重くのしかかりました。

このストレスの最な原因は、ギリシャ語のボキャブラリー不足だと思います。
そこで、ギリシャ語ボキャブラリーについては、早くから増やすことを考えると良いのではないでしょうか。
古典語は辞書を引きながら読み込んでいくのが普通のため、ボキャブラリー対策はあまり重視されない傾向があるようです。しかし、やはり基礎語彙を早くから身につけておくかどうかで、その後のストレス負荷が全然変わりますから、「中級の下」を早くに脱出するにはボキャブラリー対策は必要だと思います。

ボキャブラリーは、かつて英単語を覚えた時のように、単語集で覚えるのが一番効率的でしょう。
私は、日本語のものと英語のものを両方使いました。
恥ずかしながら英語で覚えるというのは頭に入ってきにくかったので、英語のものでは日本語の意味を手書きで併記しました。
日本語で書かれた単語集としては、
「古代ギリシャ語語彙集」
英語で書かれた単語集としては、
「Classical Greek Prose: A Basic Vocabulary」
が良かったです。

「古代ギリシャ語語彙集」は、前半の基礎語彙のみでとりあえずは良いのではないでしょうか。
また、ここの基礎語彙をおおよそ覚えると、後者がグッと覚えやすくなりました。

・辞書はなんでも良い?

「中級の下」の段階では、ストレス負荷を抑えることが必要だと思います。
なので、辞書も日本語で書かれたものでも良いと思います。
日本語で書かれたものとしては、
ギリシャ語辞典
が良いのではないでしょうか。用例もそれなりに豊富にあります。また、私は上記に挙げた「Classical Greek Prose: A Basic Vocabulary」で日本語を併記する際、この「ギリシャ語辞典」の訳を利用しました。
欠点は、持ち運び困難な大きさと、4万8600円というおよそ書籍代とは考え難い金額でしょうか。
私は解体してPDFにしてタブレットで見られるようにしました。裁断する時の決意は並々ならぬものでした。

もちろん、世界的権威である、LSJの中型版、
「Intermediate Greek-English Lexicon」
は併用していました。皆が使ってますので、なんだかんだで安心します。現在はこれがメインです。

・それでも1年は苦痛の期間?

さて、以上、古典ギリシャ語「中級の下」をできるだけ早く脱出する方法を提案しました。
しかし、それでも、原典を講読することは続けるべきだと思います。
ギリシャ語の文の流れや音を肌で身につけることの効用は無視できません。それ自体、ギリシャ語へのストレス負荷の解消に繋がります。
また、文法書だけ読んでいても、どこかで集中力が続かなくなってしまうでしょう。
結局は、上にあげた方法と、原典講読が相互に作用を及ぼしあいながら、総合的に力が伸びていくものなのだろうと思います。
ですので、やはり「型」が身につくまでの間、少なくとも1年間程度は、予習の苦痛を我慢する必要があるのかもしれません。

古典ギリシャ語初級・中級・上級の能力区分を考えてみました。

自分が古典ギリシャ語「中級の下」から脱せたのか、実際のところ定かではありませんが、1年ぶりにツキュディデスの戦史の講読に参加をし、以前に比べて飛躍的な伸びを感じられたのは事実です。
そこで、ギリシャ語「中級の下」という峠をいかにすれば脱出できるのか、書いてみたいと思います。

もっとも、その前に、この記事では、「ギリシャ語のレベル」というものを区分してみたいと思います。

ギリシャ語でいうところの初級、中級の下、中級の上、上級は以下のようなものではないでしょうか。

・初級

いわゆる入門クラスレベル。初めて学ぶ言語はやはり楽しい。ギリシャ語の名詞格変化、動詞のおびただしい量の活用、直接法・接続法・希求法の使われ方を理解する。やる気が持続すれば普通は1年間程度で卒業。

・中級の下

入門クラスを終え、原典の講読を開始したところ。各単語を見て、名詞や形容詞の格がある程度判断でき、動詞の語尾を見て、それが直接法・接続法・希求法なのか、そして人称と時制がある程度判断できる。もっとも、知っているボキャブラリーは圧倒的に少なく、一つ一つの単語に辞書を引く手間を要し、予習に膨大な時間がかかる。ペルセウス(単語の曲用・活用後の形から原型を導くことができるwebサイト。辞書にあたるのを容易にさせる。)も多用せざるを得ない。希英辞書中の例文はボキャブラリー不足のためちんぷんかんぷんであり、非常なストレスがかかる。そこであっちこっちと自分のレベルに合いそうな辞書や参考書(日本語や英語)に手を出さざるを得ない。副文が出てきた途端、それが条件節なのか、目的節なのか、結果節なのか、条件節であるとすればシンプルコンディションなのか、ジェネラルコンディションなのか、反実仮想なのかなど、すぐには判断がつかない。「ως」を見るだけで大きな不安に襲われる。そのほか副文を導入する接続詞も同じ。辞書だけでは到底構文を理解できず、邦訳を見て初めてその構文がうっすらと分かり、それに対応する参考書の項目を引くことができる。予習は基本的に苦痛である。ここを脱するには、人によっては半年。人によっては5年必要か。このレベルを脱する方法が次の記事のテーマ。

・中級の上

長きに渡った中級の下からようやく脱せ、ギリシャ語を読むことが心から楽しくなる。基本的なボキャブラリーには通じており、簡単な例文であれば訳なしで比較的スムーズに理解できる。名詞・形容詞の格変化、動詞の活用、分詞の変化については理解でき、基礎語彙であれば意味も分かる。ペルセウスは基本的に使わずに済む。副文が出てくるとそれを理解することに情熱が涌き出でてくる。副文の理解に関しては困難なく理解できる頻度が増えている。どうしても理解できない場合には訳を参考にする。「ως」はやはり曲者。完全には制することはできない。そのほか副文を導入する接続詞も同じ。それでも辞書があれば訳を見ずに理解できる頻度は圧倒的に増える。

・上級

私には未知のレベルなので言えることは少ない。。しかし先輩方の様子を見ると、どうやら辞書のみで訳の参照無しで文章の理解がほぼ可能で、副文についても困難なく理解できるようだ。この段階に至るまでには10年を要する。上級の上となると、私の師匠を見る限り、ほぼ辞書なしで文章の理解が可能。古典語学習者が目指す最終局面。学習開始から20年以上を要する?

さて、どんな事でも「中の下の峠を脱する」のが一番大変な気がします。それは仕事でも他の技能習得でも同じではないでしょうか。
私が実践したこと(していること)については、次回の記事で書いてみたいと思います。

1年間ラテン語を学んだことの感想

お久しぶりです。
本当に久しぶりの投稿となってしまいました。
久しぶりになってしまったのは、ギリシャ語と疎遠になったからではなく、ギリシャ語との格闘に悶々とした苦痛の日々と、それを脱するためにラテン語に手を出してまた疲弊する日々を送っていたためです。。

昨年の4月から今年の3月まで、ラテン語に浮気をし、1年間カルチャーセンターの講義に食らいついてきました。
ラテン語に浮気をした理由は主に以下の3つです。

・ギリシャ語と並ぶ西洋古典語であるラテン語を学んでいないのは、ギリシャ語を学ぶ者として恥ずかしいと思ったこと
・ゲルマン語の一つである英語は普通に学んでおり、ギリシャ語もある程度学んだのであるから、ラテン語も学ぶことでインド・ヨーロッパ語族全体をさらに深く理解できるのではないかと思ったこと
・ギリシャ語講読クラスのレベルが高すぎるので(先生曰く、大学院の授業よりもハイレベルとのこと)、1年間は自分のペースでギリシャ語を独習して基礎力をアップしようと思ったこと

さて、以上の理由でギリシャ語講座を中断し(もっとも独習は続けました。)、ラテン語を1年間学んだのですが、そこで思ったことは以下の通りです。
・他言語としては驚くほど活用の仕方が似ていて、文法ルールも酷似しており、ラテン語を学んでいるはずがギリシャ語の基礎的な部分の復習になる
・新しく言語を本格的に学ぶには、やはり並大抵のエネルギーでは足りない
・ここ数年間学んできたギリシャ語への愛が一層深まった!

古典語を学ぶことの楽しさは、今となっては使われていない言語で書かれた文献を読む際に感じられるインディージョーンズ的な喜びと、解読の過程で次々とパズルの穴が埋まっていく際のため息の出るほどの達成感だろうと思います。ですので、自分の結論としては、ラテン語とギリシャ語両方やらねばならない理由はなく、自分がより喜びを感じられる方をもっと深く追求していくことで十分ではないかということでした。

そういうわけで、ギリシャ語への愛を再確認できた現在、再びギリシャ語の講読クラスに参加しました。
メンバーに若干変動がありましたが、久しぶりの再会も果たせました。

ラテン語を学習していたこの1年間も、平行してギリシャ語の独習を行なっていたのですが、思いの外その成果があったようで、2年前よりもはるかにギリシャ語が読みやすくなっていることに気づきました。
自分はこの数年、ギリシャ語の「中級の下の峠」をどうやって抜け出せるのだろうかと悩んでいたのですが、この1年間の独習によって、それを抜け出しつつあるように感じられました(もう抜け出せたのかな?)。

次回の記事では「中級の下の峠」の抜け出し方を、具体的な教材名を挙げながら提案してみたいと思います!

なんでギリシャ語なんかやってるの?いやいや、なんでやらないの!?

1. 精神の資産形成

一時期(今でも?)「意識高い系」という言葉が流行りましたが、仕事やキャリアに対する日本人の熱意は恐るべきもののように思います。

さて、今日は、現在では既に使われていない古代のギリシャ語に親しむことが、いったいどういう意味をもつのかについて、ちょっとラディカルに考えてみたいと思います。

古典ギリシャ語を趣味にすること。それは、自分の精神の資産形成になるものと考えています。

資産という言葉を使ってしまいましたので、お金の問題と対比してみます。

お金を稼ぐことについてよく言われることがあります。
まず、労働は、自分の時間を切り売りするものであって、それによってお金を得られるけれども、それ以上後には何も残りません。
自分の時間の対価としてお金を得ても、それはそれ以外の自分の時間を過ごすための費用として消費されてしまい、その後はまた労働をしなければ生きていけなくなります。

一方、会社や組織、あるいは投資用不動産などの資産形成のために努力したならば、それによって出来たシステムがお金を作り出します。つまり、努力をその時点でやめたとしても、お金が自動的に入ってくる仕組みになります。それこそが資産というものです。

こうしたことは良く言われている。本屋にいくらでも平積みされています。
しかし、目下のお金のことばかりに、日本人は関心があるのか、精神面の資産形成については言及された本がほとんどありません。

当然のことながら、精神はお金よりも大事です。それは誰も争わないのではないでしょうか。
それにもかかわらず、このことがこれまでほとんど問われていないのが不思議でなりません。

次々と喜びを生み出す精神資産。これが、最低限の生活が確保できた後は、最も大切なものであることは明らかでしょう。
そして、ギリシャ語をやるということは、絶えず喜びを生み出してくれる、この精神資産の形成といえます。

2. 精神のキャッシュフロー

世の中には色々な趣味があります。
パチンコ、マンガ、映画鑑賞、旅行、ゴルフ、etc.

異論はあるかもしれませんが、これらはあまり後に大切なものを残さないような寂しさがあります。食べてしまったご飯のごとく、その時間を経験した後に残って溢れだす何かが無いのです。

一方で、ギリシャ語(をはじめとする古典語や古典そのもの)は、ゴルフやパチコンとは違い、常にその何かを生み出します。それは、言わば精神のキャッシュフローとでも言えるものでしょう。
これこそが、その他の趣味との違いです。
それはあたかも、労働と資産形成が、行動を止めてもなおキャッシュフローを生み出すかどうかによって区別されるかの如くです。

それでは、どんな風に精神のキャッシュフローは生み出されるか?
例えば、こんな風に。

はるかミケーネ時代から始まったギリシャ語、もともとインドヨーロッパ語族の一派であり、バルカン半島南下が古代のいつ頃であったのか、そういえば同じくインド・ヨーロッパ語族であり長い間人類の記憶から消えていたヒッタイト帝国が彼らと別れたのはいつ頃であったのか、そしてペルシャ戦争に勝利をし自信にあふれたギリシャにアテナイの覇権が及びその勢いを恐れたスパルタとの激突があり、彼らが内向きな紛争に明け暮れていた隙にマケドニアよりフィリッポスが怒涛のごとくギリシャ全土を席巻し、ギリシャ人自身によってはとうとう成し遂げられなかったギリシャの統一を実現し、その子アレクサンドロス大王によって率いられたマケドニア・ギリシャ軍がペルシャを滅亡させ、はるかインドにまで至る巨大な帝国を作り上げ、そこにギリシャ文化を浸透させてヘレニズム時代を作り上げ、ギリシャ語は世界公用語となりカエサルやキケロをしゃべらせ、新約聖書を綴り、ローマ帝国分裂後はラテン語に代わり東ローマ帝国の公用語としてローマ法大全の一部を彩り、首都コンスタンティノープルは古代ギリシャ文化の宝庫としてその価値を守りぬき、コンスタンティノープル陥落と共に一級のギリシャ語資料と学者がコンスタンティノープルから逃れイタリア半島へ到達しルネッサンスに寄与した後、ヨーロッパの「古典」としての地位を取り戻し、現在に連なる西洋精神の真髄を作り出し、一方、長きに渡りオスマン・トルコ支配下にあり19世紀になってようやくトルコからの独立を勝ち取ったギリシャの歩みは決して順調なものではなく、はるか古代より小アジア沿岸沿いに発展していたギリシャ系都市に住んでいた偉大なイオニア人の子孫らは歴史を捨て本土へ幾千年ぶりに戻らざるを得なくなった住民交換の悲劇を経験し、いつしか必ずコンスタンティノープルを奪還するという壮大なメガリ・イデアは夢やぶれて、その後も偉大すぎる過去に引きずられたままディモティキとカサレブサの対立を経験し、ようやく現代のギリシャの平安が訪れて・・・

駅のホームで電車を待っているときや、駅から事務所へ歩いている道のりでも、私はギリシャのことばかり考えています。もちろん、私もまだまだギリシャ初心者の部類ですが、そんなまだまだな私でさえ、ギリシャという切り口から豊富なアイデアや感情が次々と湧き出てきます。

3. 日本人の「普通」への信望の根強さ

ギリシャ語(をはじめとする古典語や古典そのもの)への関心がもう少し上がって、活性化してくれるといいなあと思います。いや、これほど楽しいものですから、もっと活性化する余地は十分にあるはずです。

一人一人が好きなことを見つけ、エネルギーを注入し、自分自身の人生を生きる。私はこれこそが幸福な国の条件だと思っていますが、なんだかんだで日本はまだまだだなと思います。
普通のやり方では生き残れないとか、普通のアイデアではビジネスにならないなどと言われますが、結局は大きな普通の生き方という枠組みの中で、より良く普通に生きる小手先の手段のように思えてなりません。「普通」であること、「普通」のやり方というのが、まだまだ猛威を振るっているわけです。
本当の意味で人々の関心が多様化されていないのではないかと思います。関係性というものが、実に貧相です。

関係性の貧相さを象徴するものがあります。
それは、多くの日本人が仕事に神聖さを抱いているという現象です。これは緩和されてきているとはいえ、まだまだ根強いですね。
はっきり言って、労働は奴隷的です。だって、その労働をしなくても同じだけのお金をもらえるのであれば、しないのではないですか?ということは、本当にしたいことではありませんよね?
こんなものに、神聖さを感じてどうするのでしょうか。
でも、日常のものであり、人生の大半をそれによって過ごすものであるためか、労働を正当化するための自己啓発書などを読んで安心してしまう方は多くいます。

ビジネスを通して世界を変えるのだ!と息巻いている人もいます。そういう人のおかげで暮らしが便利になっている側面もありますので、そういう人を心からリスペクトしますし、そういう生き方もあると思いますので、反対しません。でも、それを正しいものとして他人にも求めるのは違うでしょう。大多数の人は世界を変えようとするほどまでの考えや情熱は持っていないのでは?そして無理に持つ必要もないのでは?少なくともそうした生き方を唯一の正しさとみなす必然性は全くないのでは?

もう少し言ってしまいますと、進化や発展というのは、もともと、環境に適応することを指すもののはずです。一番分かりやすい例えが、生命の進化でしょう。人類の文化についても同じです。パピルスが羊皮紙に変わったのも、エジプトからの葦が市場に回りにくくなったために新しい材料を見いださざるをえなかったからですし、産業革命がイギリスで起こったのも、新大陸の発見で資源が豊富に流入し、需要も爆発的に増え、大量処理、定量的な経営へ移行せざるをえなかったからでしょう。そういう、環境への適応こそが発展であり、進化であるはずです。

それにもかかわらず、リソースの有限さや必要性に省みない、発展という概念にとらわれるのも、実に貧相であると思います。

4. なんでギリシャ語やらないの!?

さて、仕事で時間を費やして、それで、お金がバンバンもらえるようになる。いいでしょう。
がんばれば費やした労力以上の評価とお金が入ってくるようになるかもしれません。

では、何かをして時間を費やして、幸福度がバンバン増すようになるその何かを、貴方はしてますか?

ギリシャ語なんかなんでやってるの?と聞かれます。
いやいや、なんでギリシャ語やらないの!?

人生は時間です。仕事のしすぎは時間の浪費、人生の浪費といえます。
幸福度を増すような方向を、なぜ目指さないのでしょうか。

お金がたくさんある状況、素晴らしいと思います。では、その後はどうするの?いつ幸福度を上げることを始めるの?お金持ちになってから?いつをもって満足するの?

それとも、仕事に生きることが幸せでしょうか。本当にそうですか?スティーブジョブズですら、仕事に生きて世界を変えたにもかかわらず、死の直前、自分自身は喜びの少ない人生であった、もっと自分を大切にすべきであったと言っているのに!それとも貴方はスティーブジョブズを超える人間ですか?

そしてもうひとつ大切なこと。
幸福な精神のキャッシュフローを生み出すために必要なその何かというのは、お金では、残念ながら買えません。どんなにお金を払っても、時間をかけなければ精神の資産は形成できません。それは、人間というハード自体は変わらないからです。時間をかけなければギリシャ語も分かるようにはならないでしょう。

仕事だけで時間を食い潰した方には、残念ながら、そのための時間はあまり残されていません。

ツキュディデス「歴史」輪読開始!

さて、今月からツキュディデス「歴史」の原典輪読が開始した次第ですが、このコースは実のところ数年前から始まっています。
私を含め昨年からギリシャ語を始めた人は輪読は初心者です。そうした人のために、この半年間はクセノフォン「スパルタ人の国制」を読むという形でギリシャ語を読解する練習をさせていただいていました。

というわけで、この「歴史」の途中から読むということになりました。とはいえ、まだ第2巻の59節からということ(全体的には8巻からなります)。有名なペリクレスの演説の直前から始まりました。

実は日本語でも「歴史」を読んだことはありませんでした。ヘロドトスの歴史を読んで古代ギリシャにハマった者としてお恥ずかしい限りですが、しかしながら、初めてしっかり読んだツキュディデス「歴史」の文が古典ギリシャ語そのものであったことは幸せです。

さて、この「歴史」ですが、紀元前5世紀後期のギリシアの雄アテナイVSスパルタの直接戦争を、当時アテナイ側の将軍として戦争にも参加したツキュディデス自身が綴ったものです。

ペルシャ戦争で、ギリシャ連合軍が超大国ペルシャを破って、ギリシャに平和と繁栄をもたらした事実について触れた後、その立役者となったアテナイと、もともとのギリシャの大国スパルタ間の緊張、冷戦、代理戦争、そして直接戦争へと話を進めます。どこかで聞いたことのあるような話ですね。第二次世界大戦後のアメリカとソ連の対立の経緯と瓜二つです。もっとも、後者については、核兵器の存在もあって、直接戦争は免れていますが。。

ツキュディデスは第1巻の22節で次のように語っています。

「私の記録からは伝説的な要素が除かれているために、これを読んでおもしろいと思う人は少ないかもしれない。しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性のみちびくところふたたびかつてのごとき、つまりそれと相似た過程をたどるであろうから、人々が出来事の真相を見きわめようとするとき、私の歴史に価値をみとめてくれればそれで充分である。」(「トゥキュディデス 戦史」久保正彰訳 中央公論新社)

今後数年にわたって、この「歴史」を読み込むことができるという機会を得られたことは本当にラッキーです。ツキュディデスの言うところの「人間性」に少しでも触れられればと思います。

古典語読解は第2巻の59節からですが、それまでの部分を日本語で読んでみた際、はっとさせられる文に出会いました。ペリクレスの葬礼演説(第2巻35節)に書かれていた部分です。最後に引用します。

「他者への賛辞は聞き手の自信を限界とし、その内にとどまれば素直に納受されるが、これを越えて賛辞を述べれば、聞き手の嫉妬と不信を買うにとどまる。」(同)

古典ギリシャ語続行中

久々の投稿となりましたが、元気に古典ギリシャ語を続行しています。

これまで、4月以降半年にわたって、ソクラテスの弟子クセノフォンの書いた、「スパルタ人の国制」を輪読してきました。輪読コースの先生がおっしゃるには、クセノフォンは今でいうところのジャーナリストのような存在だったそうです。実際に読んでみると、なるほど、物事を客観的に淡々と語りつつ、少しばかりの評価をする。けれども事実の叙述が中心で、深い思索を探求するといった姿勢ではない。

内容としても興味深いところが多かったです。スパルタ人の結婚、出生、成長、教育、軍隊、そして王について順序立てて説明していくもので、紀元前400年ころのスパルタの制度を研究する資料としても重要な文献といえるのではないでしょうか。

ただ、非常に読みづらい。。ギリシャ語は冠詞が非常に重大な役割をもっていたり、語尾変化が豊富であるおかげで、相当に規則性が高いのですが、この作品は非常に技工的な感がありました(もっともしっかりと原典を読んだのはこれが初めてなのですが。。)。それゆえ、内容自体を楽しむという余裕はなく、文の構造を把握するのに尋常ならぬ手間がかかりました。

特に私は輪読コースは初心者でしたので、スムーズな発表ができず、ギリシャ語のベテランの方々に非常に迷惑をおかけしてしまったかもしれません。

先生がおっしゃるには、中途半端な辞書を使ったり、日本語訳を読みながら解読していくのは、力を伸ばさないとのこと。そこで私も当初はLSJのintermidiate(要するに大学のギリシャ語学習者において最も使用されている辞書)を使用していましたが、働きながら夜にちょっとカフェで予習する程度の時間しか取れない私には限界がありました。複数の辞書をPDF化してタブレットに読み込ませたりして様々な制約を取っ払おうと努力しましたが、なかなか最後までしっかりとした予習はできなかったかもしれません。日本語訳にもだいぶお世話になってしまいました。

そこで、つい先日、有料自習室を借りることにしました。ここのロッカーに辞書を入れ、平日の夜や休日に「ギリシャモード」になれる環境を作りました。これからはしっかりと予習ができるかもしれません。

10月に入って、ツキュディデスの書いた「歴史」がスタートしました。実は先生が「スパルタ人の国制」を選んでくださったのは、この書物を読むためでもあります。ご承知の通り、ツキュディデスの「歴史」は紀元前500年後期のアテナイVSスパルタの世紀の大戦争を叙述したものです。もう想像するだけでワクワクしてしまう内容ですが、この戦争を理解するためには、スパルタの国制というものも理解しないといけないわけですね。

私たちの日本はどちらかと言えば民主政のアテナイに近いですし、古典期に作られた文芸はほとんどアテナイのものですから、アテナイについては馴染みやすいでしょう。しかしスパルタについては、そのポリス名が既に抽象名詞化していることからも分かるとおり、少々理想化というか、幻影化されている風が否めません。その当時のスパルタについて、当時のギリシャ人が書いた書物を通じて学ぶことで、スパルタというポリスの実像に一歩近づけたのではないかと思います。ツキュディデスの「歴史」の理解にも役立ちそうです。

もっとも、「スパルタ人の国制」を読んでいると、ちょっと誇張されているところがありそうだとは思いました。なにせ、当時のアテナイの民のために書かれたもので、スパルタの実情を良く知らない人をちょっと驚かせてやろうという、物書きにありがちな下心はあったでしょう。なのでクセノフォンが述べるスパルタが、本来のスパルタであったかどうかはまた別の話かもしれませんね。

それでも、スパルタについて何も知らないままツキュディデスを読むのとは全然違うことでしょう。これからが楽しみです。今後は、輪読のペースに沿って、ツキュディデスの「歴史」についても、このブログで述べていければと思います!